ぷらすちっくな言語SPEIL -人文学、ボードゲーム、合成樹脂-

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませるさらりーまん。ボードゲームとSFを好みます。

『孫子』を学びて人文科学の悲哀を感ず。

久々に大学で講義を受けてきました。

 

最近の大学って社会人向けの講座をやってたりするじゃないですか。「ビジネスマンのための中国講座」的なのをうちの会社が枠をとっているらしく。うちの部署では中国担当の先輩が受講してるんですが、その先輩が都合つかないということで代打で受講することになりました。まあその先輩から中国関連の仕事を引き継ぎ中なのである意味これもその引き継ぎの範疇という気も。

この講座は半期のうち前半はアカデミズムの人々が中国古典や政治経済について講義し、後半は中国で仕事したことのある企業人があれやこれや語るという構成。今回は中国古典から『孫子』と『三十六計』についてでした。

正直、企業人による中国ビジネス云々についてはいまいち興味がないのですが、中国古典についての講義は久々にアカデミズムに触れられるという点を差し引いても興味があったのでわりと前向きに参加。

 

講師は阪大の先生で諸子百家関連でいろいろ本を出されているようで、素人というかエコノミックアニマルへの講義も慣れているようでたいへんカジュアルでソフトな講義でした。

恥ずかしながら『孫子』は読んだことなかったのでこの講義でなんとなく読んだ気になれたのでお得感がありました。

(めちゃくちゃマイルドでぬるいとはいえ)久々の人文系の講義でテンションも上がっていたので積極的に質問したので、運営の人にも喜んでもらえたようです。

おもしろかったポイントがざっくり3つ。

 

1.『孫子』の中に「君主が無能ならばその命に必ずしも従う必要はない」という趣旨の文言がある。

 

これは結構刺激的な内容だと想うんですよね。中国には儒教に基づく「易姓革命」という、より上位の権力(”天”)を設定することで世俗の権力であるところの君主を打倒することを正当化する理論はあったわけですが、それも成立は孫子より後のことで少なくとも春秋戦国時代にはなかったでしょう。

それも、”君主”の上に”天”というより上位の権力を設定してる点においては、上下関係自体は厳守しており、むしろ上下関係を強化してると言えなくもないわけですが、『孫子』においてはそうではないという。まあこれは思想書ではなく、兵法書、すなわち戦に勝つためのハウツー本なわけですから、徹底的に実務によればそうなる、という当たり前の帰結なのかもしれません。

しかしながら、そのような革命的思想を含む書物が度重なる焚書を乗り換えて今も広く読まれているっていのうはすごいな、と。

ある意味後世に広く読みつがれるものというのは単純な原理主義・普遍主義というよりは一定の柔軟性、それは世俗の権力との衝突しうるものをもっている(だから魅力的)

ものなのでは、と。

 

2.昭和天皇の敗因分析

講師がつかみとして紹介していたのが、昭和天皇の独白録における太平洋戦争の敗戦分析でした。

陸海軍の不一致や過剰な精神主義/科学の軽視とか挙げてるんですが、まっさきに挙げているのが「兵法の不勉強。特に孫子」とか言ってるんですよね。おもしろ。

問題なのは、この文章には主語がなくて天皇自身がそうだったと言っているのか、軍首脳部なのか、あるいは国民全体だったのか、そのへんが不明瞭だと。

一説では「昭和天皇が責任逃れをしようとしたのではないか」という解釈もあるとかないとか。実際に昭和天皇は昭和7年に7回にわたって孫子についての講義を受けているんだとか。いやはや。

しかしまあ昭和天皇をして太平洋戦争の命運を分かたせたとさえ思わせる孫子、、、おそろい子!

 

3.ビジネス書ないしは自己啓発本としての『孫子

講義前から気になってたのが、なぜ現代日本において孫子はビジネス書として根強い人気があるのか。

 

明治、大正期の帝国軍人はわりと熱心に『孫子』を読んでたらしいですが、昭和期には人気がなかった、と。「こころ」だとか「大和魂」を重んじる昭和の軍人にはウケが悪かった(大意)。

そんな『孫子』がもてはやされるのは戦後意外と早くて昭和30年代のことだとか。この頃、経営学の方面で孫子の兵法を「商”戦”」に勝つための方法論として読み替えていく流れがあって、ビジネスマンにウケたらしい。

当時の中国思想研究者たちからは正確な読みでない、と苦々しい反応だったそうだが…

 

それが今となっては、中国思想研究の大家らしき人が企業人たちを相手に孫子を説いている有り様なわけで。時代は変わるわけですな。

奇しくもこの講師氏が講義の冒頭で昨今の人文科学の苦境(まさに大学では、中国思想系の研究が文学部、外国語学部、法学部とまたがっており、”なぜおなじようなことを別々にやっているんだ”と学科再編に乗じたお取り潰しの危機ある)を大阪冬の陣、夏の陣になぞらえた小噺として語ってくれていたわけですが、まさにこの正直忸怩たる思いも幾ばくかあろうかと思った次第です。

人文科学が生き残る道は社会に積極的にその有用性を示していく、対大学経営サイドという意味ではたとえばこのような企業人講義とかで稼げるコンテンツだということを示していくしかないんだろうな、と。

しかしまあ、こういう企業人向けに限らずテレビとかのお手軽コンテンツにありがちな「中国古典・文化がこうだから、それを幼少期から染み付いている中国人はこうだ!」みたいな固定的、断定的なものって人文科学のスタンスの対極にあるように思うんですよね。もちろん、尺の都合やわかりやすさ重視、もっと言うと受講・視聴後の満足度重視という観点からはそれが有効だというのは理解するんですが、もやもやしちゃいますね。

 

 

それはさておき、『孫子』も『三十六計』もわりかしおもしろかったので、これからは主にボードゲームプレイ中に「あ、この問題、『孫子』でやったことあるやつだ!と巧手を繰り出すときに「これぞ、連環の計!」とか積極的に使っていこうとおもいました。