急がばしゃがめ

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませては目を回す。人文系だけど高分子材料でご飯食べてます。。SF読んだり、ボードゲームに遊ばれたり。一児の父。

なぜそちらの側に立てないのか――『アンティゴネー』の翻案の翻案から

機会に恵まれて『ヴェールを被ったアンティゴネー』(フランソワ・オスト著、伊達聖伸訳)という戯曲を知った。

ご存じの方もいるだろうが、『アンティゴネー』という戯曲を現代フランスを舞台に翻案したものだ。

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経緯としてはたまたま私の所属している組織で東大の人文系の講義を行うという奇特なイベントを開催する運びとなり、その第一弾として本書の訳者である伊達聖伸先生の講義が開催されたのだった。

(正直、実利至上主義の極めて野暮な組織だと思っていたのでポーズといえども社員にリベラルアーツを学ぶ機会を用意するというのが率直な驚きだった。) 

 

脱線しますが、伊達先生といえば、ライシテの専門家。ライシテというのは、フランスにおける政教分離政策のこと…としばしば説明され、僕も「フランスでは公共空間において無宗教なのではなく、社会として”ライシテ”という”宗教”を奉じているのだ」などともっともらしいことを言っていたのですが、こちらの伊達先生の新書を読んでその認識の歪みを反省した次第。

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さて、本線に帰りますが、『アンティゴネー』という戯曲はギリシャ神話のアンティゴネーが題材なわけです。アンティゴネーといえばみんな大好きエディプスコンプレックスのオイディプスの娘ですね。反逆者として死んだ兄を国王の命に反して埋葬し、そのかどで処刑される…物語。

『ヴェールを被ったアンティゴネー』はそれを現代フランスを舞台に、アンティゴネーをムスリムの少女、そして国王を校長に置き換える。校長によってテロリストに仕立て上げられた亡き兄のために喪に服そうとする少女に対し、そのことを咎め、さらにはヴェールを被るといった宗教的標章の校内における顕示も禁止してしまう…

興味深いことにこの著者であるフランソワ・オストは作家ではなく法哲学者であるのだという。自身が講義する中で教室のムスリムの女子学生をみて翻案するアイデアを得たのだという。

さらに興味深いことには、この邦訳版には伊達先生が自身の講義の中で学生たちが作成した現代日本を舞台とした翻案の翻案まで掲載されている。注目すべきはやはりこの翻案の翻案。

 

原本はいわば、国王側に立つ国家/法とアンティゴネー側の個人ないし家族/普遍的道徳(家族の死への哀悼)の対立が主題となっている。

その翻案である『ヴェールを被ったアンティゴネー』においては校長側に宗教的マジョリティ(カトリック)/男性性/校則が、少女側に宗教的マイノリティ(ムスリム)/女性性/普遍的道徳(家族の死への哀悼)が対置され、その緊張関係が描かれる。

 

「ライシテ」という一見、普遍的な正しさをもっていそうな理念がその実践において往々にしてムスリムという少数派を排除される方向で機能してしまっている。そのような意図をもったひとたちによって利用され、結果的に社会の分断を深めているという現実が指摘されている。

多様性あえて横文字にしてダイバーシティは「認める」という動詞とセットで日本で、特に企業のCSRの文脈でみかけることが多いけれど、これも多数派ないし体制にとって都合の良いマイノリティのあり方を優遇、称揚することによってそこに当てはまらないマイノリティを排除する、社会からの分断を深めているところはないだろうか。いまの会社で経営者が途上国の若者について語るときも型にはめたロールモデルの教化モデルの文脈でばかり語ることを思い出さずにはいられない。

 

若干それましたが、翻案の翻案の話。

先生の授業で学生たちが作成したという現代日本における翻案の事例が2つ、講義の中で紹介されていた。

 

・議会に赤ちゃんを連れてきた女性議員と議長

・女性保育士の間で産休・育休に入る順番が決められている保育園でそれを無視して産休を申し出た女性保育士と園長

 

ここでおもしろいのが、学生がつくったという事例では極めてわかりやすくジェンダーの問題がクローズアップされている点。『ヴェールをー』ではもちろんジェンダーも意識的に配置された要素だろうけど、宗教や人種といったマイノリティの問題は現代日本でもあるだろうに…

極めつけは、ふつうに読めば産休に入る順番を設定するという肯定し難い制度を屁理屈をこねくり回して擁護する園長を、議論の中で懸命に擁護しようとする同じく講義を受けていた会社のおじさんたち… 論理性もさることながら、少なからぬ女性や若手が参加している場で「いや、組織としては存続のために…云々」などとよく言えたものだな、と。こんなことを抜かすおっさんたちがのさばっている組織に長くいたいと思うものだろうか。なぜおじさんたちは常にといっていいほど自分たちを権力の側に同一視したがるのか。おじさんたちもその多くが家に帰れば人の親であるだろうになぜ子育てする側に立てないのか。

 

そこでちょっとした提案なのだが、企業の管理職の昇格試験なりなんなりでこのようなポリコレ的複雑状況についての対話篇を読ませて勝手に意見を述べさせる。そこで、CSR的地雷を踏みにくような人間が上がっていかないようにすることにこのような人文知が活用できるんじゃないかなと。そんな人間が管理職として権力を握ればコンプライアンス上のリスクがあるわけですし、そいつがそのままいるということが現場の士気を下げることになるわけで。これはとても合理的な人文知活用のあり方なのだ…と書くとなんだかとても危険な思想のようですね。私は時代にキャッチアップできないおじさんたちも易々と排除することなく、その古い価値観の誤りを自覚・自省するくらいまではその場その場でちくちく刺し続けたいものです。