急がばしゃがめ

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませては目を回す。人文系だけど高分子材料でご飯食べてます。。SF読んだり、ボードゲームに遊ばれたり。一児の父。

風立ちぬ 評(2013年)

金曜ロードショーで『風立ちぬ』をやっていたみたいなのでそういえばと上映当時に書いた文書をサルベージしてみるなど。

 

 

以下、2013年の文書

 

先日、ようやくスタジオジブリ最新作、「風立ちぬ」を観てきました。僕は、前作の「コクリカ坂から」については劇場でボロボロ泣きしておきながら、その内容についてボロクソに批判するという不可解なことをしていたりするのですが、本作についてもそういった僕にラディカルな反応を引き起こすものを期待していたのですが…

本作は僕を泣かせることもなければ憤らせることもなく、感情を昂らせることのない実に淡白な作品でした。それはまあこの作品で描かれていること、描こうとしていることがあまりに妥当というところに尽きるのではないかと直感的には思うのですが、その辺の検証できるかどうかはさておきとりとめもなく書きます。


(以降、ネタバレを含みますので(ネタバレがどうこうという作品ではないと僕は考えますが、)ご注意ください)

 

まず、冒頭。二郎少年が飛行機の設計者を志すところから物語は始まります。(近眼という身体的制約から)「飛行機に乗る、操縦する=空を飛ぶ」ではなく「飛行機をつくる」ことに夢見るというのが歪みのようなものを軽く感じさせます。
その後彼は少年の日の夢を成すことにただひたすらに邁進する。その背景として病弱な少女、菜穂子との恋が描かれ、その夢が実現とともに、菜穂子の死が描かれることで幕引きとなる。

序盤から一貫しているのは二郎の飛行機の開発に対する、その情熱、純粋さ、真っ直ぐさ。それは裏を返せば、人間としての他の責任を放棄しているとも言える。
つまり、作中でも触れられているように、その時代において飛行機をつくることとは兵器を、戦争・人殺しの道具をつくることに他ならない。しかし、そのことについて二郎が葛藤するような描写はほとんどない(と記憶している)。彼は自分のやっていること、成さんとすることがもたらすものについて自覚的でありながら、努めて無自覚であろうとする。技術・科学技術の発展・向上という価値中立とみなされる領域に留まろうとするばかりで、その技術の帰結するところ及びそのことと自己との関わりについては判断停止を決め込んでいるようである。
彼がそのような確信犯(誤用)的姿勢によって見て見ぬふりをしてきたものとは終幕の菜穂子の死、および終戦を経てようやく彼に重くのしかかってくる。兵器ではない飛行機をつくることができる可能性が開けた状態にあっても、二郎の目には少年のようなきらめきはなく。
この悲劇には2つの原因がある。
1つには、技術や科学技術が潜在的に有する向上・進歩・発展という方向への推進力。一度ドライブがかかってしまえば、その推進力を止めることは非常に困難で、心弱い人間はそれに巻き込まれただひたすらに突き進むしかない。それは飛行機に魅せられたばかりに、愛していると言った女性さえもただ道具のように利用するだけ利用して死なせてしまった二郎は何も特別に人として欠陥のある存在ではなく、誰しもがそうであったのであり、そうでありうるのである。

もう1つには、各人が個人個人に割り振られた職務の範囲内に閉じこもることによる全人格的な責任の放棄。3.11後に原発事故と第二次世界大戦(日本軍の意思決定やホロコースト)を結びつける議論が散見されたけれど、残酷は悪人がなすのではなく、(倫理的な葛藤から目を背けることで成立する)誠実な職業人こそがなすのである。

二郎という人物は、(結果的に?)職業人として職務に忠実である様が作中で描かれるが、内面としては自身の欲望に忠実であったという方が正確であろう。夢や志望のままに生きることは美しいとされるが、その美しさとうのは、それが美しくあるためにさまざまなものを切り捨てていることを忘れてはならないし、そのことを予感させるからこそより美しくあるのだろう。

まあ僕からすればそんな美しさなんかクソ食らえであり、泥の中にまみれてもがいて息絶えたいと思うのです。

最後に。
作品の主題と思しき「生きねば」とは何なのか。近代システムに飲み込まれ(たように偽装し)て、システムに生かされるのではなく、極めて厄介な倫理的葛藤を含めて全人格的責任を引き受けるような生き方を回復せよ、と。それこそが生である。と。

 


ジブリゼロ戦開発者の物語を描くというからどんなにか矛盾に満ちた刺激的なものになるかと期待していたのにあまりに穏当な落とし所であり、ひどく物足りなさを感じた次第です。