meirin213の日記

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませる熱可塑性会社員。ボードゲームとSFを好みます。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』考

カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞しましたね。初めて自分が読んだことのある作家が受賞したような気がします。

カズオ・イシグロは『わたしを離さないで』くらいしか読んでいないのですが、大学生の頃に書いたレビューというか考察というか文章があったのでこちらにて再掲。

当時のわたしの若さと勢いのある文体とともにお楽しみください。

 


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カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』土屋政雄訳、早川書房、2006年(原題 Never Let Me Go 2005年)

日系英国人文学者カズオ・イシグロによる小説。昨年、イギリスで映画化され、今年の3月に日本でも公開されるそうな。クローン人間による臓器提供が制度化されているというなんとも未来的・SF的設定があるが、著者は冒頭、すなわち主人公キャシーが過去の回想を始める時点での時代設定を1990年代末としていることには留意しておきたい。そして、今さらっと本作における重大な設定を”ネタバレ”したわけだが、これは私が本作はあくまでも「文学」として読まれるべきであって、そこらの隠蔽された”真実”が解き明かされる過程を楽しむミステリー小説の類として読まれるべきではないと考えるからである。カズオ・イシグロもインタビューの中で

  この小説は最初から読者が結末を知っているかどうかは、重要ではないと恩います。(中略)サスペンス性がそれほど大きな間題になることがわかっていたら、もっと最初の方で事実の部分を明かしていたかもしれません。そうすると読者は他の面やテーマにもっと留意することができたかもしれません。
(「カズオ・イシグロ/Kazuo Ishiguro 『わたしを離さないで』 そして村上春樹のこと 」国際フリージャーナリスト大野和基のBehind the Secret Reportsより)

と述べているかことからもそのことは明らかである。ネットのレビューなどを見ていると「キャシーたちの運命を知ることは作品の魅力を減ぜしめる」という認識が支配的であるが、私は彼女たちが臓器提供のために生み出されたクローン人間であることを知った上で読んだ方が遥かに深い読みができ、また、それは著者の本意にも適っているので臆さずに”ネタバレ”をした次第である。

それでは、考察に入りたい。
主人公キャシーらは先述の通り、臓器提供のためだけに生み出されたクローン人間である。彼らは専門の施設で育てられるが、キャシーらが育つヘールシャムもその施設の1つである。ただ、このヘールシャムは他の施設と異なり、創造性を極端に重んじた教育がなされている。また、ここでは、詳細であるが淡々とした性教育がなされるが、彼らクローンは性交渉は可能であるが子供を産むことができないのだという。このことは彼らがクローン人間、すなわち彼らが人工的に、男女の性愛なしに生み出された存在であるということを反映していると思われる。キャシーが自身の性の衝動に悩まされるなど作品を通して性というものがかなりクローズアップされていることも同様であろう。そして、このことは、クローン人間の間で流布しているという噂が「深く愛し合った男女は臓器提供を3年間猶予される」という神話の構造を取ることに集約される。

この神話をめぐっては物語の終盤でキャシーが全編を通じて特別な絆が描かれるトミーとともにヘールシャムゆかりの人間を訪ねている。トミーはヘールシャムでの異様とも言える創作活動の奨励、創造性への称賛はこの男女の愛の深さを証明するためのものであると考えていたが、提供猶予は単なる噂に過ぎず、ヘールシャムの創造性教育も外部に対してクローン人間の待遇改善を主張していた施設関係者がクローン人間にも教育によって創造性という人間性が宿るということを示すための手段であったことが明かされる。
その事実に落胆するトミーに施設関係者は「自分たちがチェスの駒と同じだと思っているだろう、でも…」(p.319)と慰めの言葉をかける。ここで「チェス」という言葉が使われているが、この「チェス」はそれまでに2度出てきている。それは、いずれもキャシーとその親友であり、かつてはトミーの恋人でもあったルースとのやり取りである。
1度目(pp.66-7)は幼少期にルースにキャシーがチェスのルールを教わろうとして、実は知ったかぶっていただけというルースの虚飾を見抜くも、それに付き合おうとするシーンであり、2度目(p.149)はヘールシャムを出た後の共同生活中に、ルースの軽薄な行動を咎めていたキャシーが、迂闊な言葉を吐いたことでルースに反転攻勢に回られる場面で、その心情を「チェスで一手指し、駒から指を離した瞬間に過ちに気づ」いたような感じと表現している。この2場面はともに二人の関係における主導権の賭かかった重大局面で登場するのであり、虚栄心であったり、他者の痛みに配慮する心、人間関係における駆け引きで相手を打倒せんとする欲などよくも悪くも極めて人間的と考えられる心情が発露される。つまり、「チェス」において人間性が表象されていたのであるが、施設関係者が「チェスの駒」と述べ、チェスの打ち手というメタな視点から捉えられることで彼らはそのような感情が欠落し、人間性を有さない単なる有機物、提供可能な臓器を有する資源へと成り下がる。クローン人間たちの”神話”は自分たちが生まれつき疎外されている、正当な生命の起源である男女の性愛を自らの手によって取り返す、確立させることによって、クローン人間たちに用意された臓器提供という宿命、エデンの園を新たなアダムとイブとして離脱し、真に人間となることが予期されているといえよう。とはいえ、キャシーとトミーによる試みは彼らの育ての親から根本否定され、加えて彼らに手を差し伸べていた施設関係者自身も大航海時代の宣教師が”現先住民”が信仰と教育によって”人間”らしくなりうると考えたように彼らを人間とは一線を画す存在として捉えていることが明らかとなる。ここにおいて神話が完全に破壊されることによって、クローン人間自身が帯びていると考えていた人間性というものはルースの虚栄心同様、まったくの虚飾であると判決が下されるのである。

そして、施設関係者が彼女らなりのヒューマニズムに基づきながらも、宣教師よろしく”先住民”を人間とは区別し、一線を超えることができなかったように、クローン人間たちにも臓器提供という宿命に対し、それに猶予を願い出ることはあっても根本的にそこから逃れたり、ましてやその宿命を打倒せんとする気概が全くないのである。そのことは太平洋戦争における特攻隊員と同じで、思想教育や社会情勢の影響としてやむをえないと言ってしまえばそれまでだが、正当な異議申し立ての機会を自ら閉ざしているのである。つまり、感情や言動なりを整えて人間らしく振舞ってみせても、所詮は人間たりえないということであり、人間たりうるには、臓器提供という予め決定された未来に真っ向から立ち向かってみせる姿勢、すなわち、反逆不可能に思われる因果律にも立ち向かってみせることを可能とするような自由意志こそが人間性の根拠だということを示唆しているのではないだろうか。

キャシーらクローン人間は「提供の猶予」という小さな物語に満足し、彼らをその起源から規定・抑圧するような宿命、大きな物語に立ち向かう気概はおろかそのことへの不満・疑念すら抱くことはついぞなかった。だからこそ、生まれた時から死ぬまで人間ではないものとして扱われ、終始人間性から疎外されているのである。

このような状況はクローン人間であるキャシーらの身の上に生じているだけではないだろう。よくある批判ではあるが、心理学主義化された社会においてあらゆる問題を精神や心に還元し、個人に押し込めてしまうことで社会構造、社会全体としての問題が看過され、個人の責任のみが問われてしまっている。少し前に流行り、今では定着した感のある”癒し”ではあるが、与えられるがままのヒーリングアイテムやパワースポットという小さな物語に刹那的に充足させられ(一時的な猶予を与えられ)、日常的には社会や権力に抑圧/搾取され続けるような現代人の在り方と私にはダブって見える。

われわれは今こそ社会に対して、権力に対して正当な異議申し立てを行うべきではないだろうか。
そんなことをこのような”文学”から考えるのはやり過ぎというものだろうか…

文フリ大阪に出展してきた。

すっかりご無沙汰してます。

前回の更新からかれこれ3ヶ月空いてしまいました。

 

つい先日、9/18に開催された第五回文学フリーマーケット大阪(通称:文フリ大阪)に出展してきました。

仕事、育児、同人誌執筆に追われ、心身ともにしんどい期間が続きましたが、それを吹き飛ばすような達成感、とまではいかずとも手応えを感じられました。

 

ちなみに、文フリ大阪では、当初の予定では「中津ぱぶり家」の同人誌と「たほいや問題集」の2本立てで臨む予定でしたが、計画の甘さから「たほいや問題集」のみ、それも当日印刷のコピー本というギリギリの仕上がりでした。

 

たほいや問題集は、”たほいや”という広辞苑を使ったアナログゲームの問題集。

ちはにみにたほいやとは、広辞苑に掲載された見ず知らずの言葉の意味を新たに作成。即興の意味の中から真の意味を読み当てる遊び。詳細はwiki等参照。

たほいや - Wikipedia

 

で、実は僕はこのたほいやの定例会を開催しておりまして、そこで実際に出題された問題を問題集としてまとめつつ、解説やらなんやらを書き添えたものです。

 

文フリ会場のブースの机上に広辞苑を置き、「広辞苑読んだことありますか?」といつもの胡散臭い感じ声をかけまくってました。文フリ来場者だけあって、こういう言葉遊び系には比較的感度高い人が多く、反応も上々。

当日まで出せるかどうかもわからなかったのでまともに告知すらしておらず、見栄えも決してよくはない作品でしたが、なんだかんだで10部ほど売れました。

 

会場では、知人の高齢男性になぜか遭遇したのですが、彼から「たほいや問題集には名前はないのか?」と聞かれ、限られた時間の中で特に気の利いたのも思いつかなかったのでその旨回答したところ、「だったらわしがいいの考えついた。大誤解いうのはどうやろ」みたいなこと言い残し去っていきました。結局、彼は同人誌は買ってくれませんでしたが、このアイデアはいいので早速取り入れていきたいと思いました。

 

今回の文フリではパイロット版として次回からは「大誤解ーたほいや問題集ー第一版」などとして出していければな、と。

 

今回はほんとうに慌ただしさのあまり印刷上の致命的ミスもあったりしたので、どこかでしっかり告知をした上で雪辱を果たしたいな、と。

 

それと、会場をいろいろ見て回って思いましたが、ぱぶり家同人誌自体は結果的に出せなくて正解だったのかな、と。たほいやはまだ普遍性のあるコンテンツとしてのポテンシャルがありますが、ぱぶり家のあれこれでは見ず知らずの人の気を惹くにはなかなか苦労しそうです。

 

まあようやく遅めの夏休みの宿題の提出も終わったところですので、いったん羽を伸ばしたいところ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酒→コーヒー、哲学カウンセリングについて

<飲酒とコーヒー>


このところ、直属の上司が交代する関係で、社内外での歓送迎会が続き疲弊気味で
す。


飲み会で仕事を切り上げる時間が早い+翌日まで残る酒のダメージ+でも、捌くべ
く仕事量は変わらない…





それはさておき、先日京都でお客さんと3時間ほど飲んだ後、お客さんと別れまし
た。


その後、京都は上司が学生時代を過ごした思い出の街ということで(?)、なぜか
四条の喫茶店へ寄ることに。


そこで、飲み直すでもなくコーヒーをみなで一杯ずつ頼んでまったり談笑。


喫茶店も古き良き”洗練された純喫茶”って感じのなかなか格調高さそうな雰囲気の
いい店でした。


僕という人間は酒を飲むとついつい食欲の抑制が効かずに、帰り道にコンビニへ立
ち寄ってスナックとかスイーツを調達してしまう、という悪癖があるのですが、こ
の日はコーヒーの苦味でクールダウンできたのか、カフェインが効いたのか、穏や
かな心持ちで甘味を、カロリーを摂取したい、という衝動を抑えることができまし
た。





効果の検証も含め、今後も続けていきたい習慣と思いました。





<哲学カウンセリングと哲学カフェ>


中津ぱぶり家で隔週開催されている「いまを生き抜くための勉強会(通称:いま生
きぴょんぴょん勉強会)」にて「哲学カウンセリング」が取り上げられました。





哲学カウンセリングとは、その場でざっくり紹介されたものをざっくり理解したと
ころによると、





哲学カウンセラーは、相手の相談事について、話を聞くところからはじまるわけだ
けれども、いわゆる心理学的なカウンセリングと異なるのは、哲学カウンセリング
の場合は、カウンセラーはあくまでも議論のパートナーとしての立場に留まるもの
であるとか。つまり、一般にカウンセラーは医療における患者と医者の関係をひき
ずっていって、何らかの処方箋としてアドバイスを提供する(ことを期待され
る)のに対し、しか哲学カウンセリングの場合は、その哲学的・人文学的なバック
グラウンドを活かして論理的に考えるための助けとして、対話の相手というあくま
でも対等な立場で存在することはあっても、教えを授けるという支配・従属のよう
な権力構造を排した/排しようとするところにポイントがありそうです。





等と説明されてみて、なんとなくは輪郭は掴めても、果たしてそのようなものが成
立するのか、という疑問がすぐに浮かぶわけです。


というわけで早速それをやってみよう、ということになり、参加者の一人の相談に
哲学カウンセリングについて話題提供を行った人物が実践的に対応してみる、こと
に。





実際にそのやり取りを聞いているうちに、相談者が自分の現状の不安や悩みについ
て、その発話する言葉の、曖昧であったり主観的価値判断を含んだ内容に切り込
み、掘り下げていく上で徐々に論点が整理され、その根幹にあるものに迫っていっ
たり、どのような実践をすべきかが明確化されていくような印象をもちました。


また、今回は途中からなし崩し的に他の参加者もあれやこれやと話をしていたので
すが、各人のやり取りからいろいろ考えさせられました。





1.相談者の話を聞いていない。


・複数の人が相談者がすでに話している内容、あるいは言外のことから推察できる
内容について尋ねていました。


(※効果的に相手から情報を聞き出そうとする場合に、意図的に繰り返し聞くという
こともあろうかと思いますが、そういうことを意図した聞き方ではなかった)


・単純な聞き逃しもあろうかと思いますが、人の話を聞きながらその内容を体系的
に整理することは案外難しいことなのかもしれません。


・また発話者の意識/無意識の言葉選びや言い回しから、字面以上の情報を読取
る、ということも難しいのかもしれません。





2.対等な立場で話す


・今回の相談者は比較的若い人物だったわけですが、その人物に対して、自分の社
会的地位・立場をひきずって発言する人物がいました。(年長者が年少者を気にか
ける、諭すような口ぶり)


・ふつうの会話なら別に問題ないのですが、哲学カウンセリングとはフラットな関
係で行うもの、という説明を行った直後の出来事だったので印象的でした。


同じように参加者間の対等な関係を前提とした対話の場である哲学カフェでもこ
のような事例は散見されます。現代人だか日本人だか、そもそも人類一般だかは知
りませんが、社会的属性を脇において対話する、ということはある種の訓練が必要
なものなのかもしれません。





3.主観的な言葉


・主観的な価値判断を大いに含んだ言葉、たとえば「ノーマルな人生」とかを何の
留保もなく使う人が散見される。


・一般的に対話を行う場合は、多様な価値観(しばしば自分とは相容れなかったり
する)をもった人とも対話が成り立つように、価値判断が色濃くでるような言葉は
なるべく避けますし、人文科学の世界では迂闊にそのような言葉を出そうものなら
真っ先に突っ込まれます。ある意味、そのような言葉について掘り下げていくこと
で、それが前提としているものをあぶり出していくことで、問題の本質?や興味深
い議論に迫れるというものでしょうが。





4.拡散する議論


・話の中で、相談者の抱える問題の本質に迫れそうなことが出てきた、にもかかわ
らず、そのポイントとは異なる、しばしば瑣末なことがらに食いつくとか、せっか
くできている流れとは異なる方向に(意識せずに)話をもっていこうとする事態も
ままありました。


・議論において、どこが重要であるか、肝となるか、という見極めというのもある
種の技能や訓練が必要なものなのかもしれません。








だらだら書きましたが、これらは別に哲学、人文学の覚えがなくても、デキる人に
はデキる内容かと思います。


しかしながら、これらを身につける上では、人文学の訓練というものが紛れもなく
活きてくるな、と感じた次第です。そして、そのことは人々が世の中に対して主体
的になる、という中津ぱぶり家の背後にある理念パブリックエンゲージメントの考
えとも呼応するものであるな、と。





そういうわけで、個人的に哲学カウンセリングに期待をもって興味をもっておりま
す。ピーター・ラービというカナダの哲学者が第一人者だそうなのでまずは彼の本
を読んでみようかと。

 

哲学カウンセリング―理論と実践

哲学カウンセリング―理論と実践

 

 

それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?と思った話。

 

ツイッター佐々木俊尚の挑発的なエントリがあった。思わず読んだ。

bunshun.jp

佐々木俊尚についてはともかく、この記事についてはおそろしくセンスないな、と。

寧ろ各種の詭弁に満ちた全くもって危うい記事ですね。佐々木俊尚ってもうちょっと理性的な人物だな、と思っていたのですが…

 

具体的に。

彼は上野千鶴子細川護煕を引いて、”脱成長派”をあげつらっております。

この人たちが”脱成長派”の代表的な論客かどうかには異論を差し挟む余地は大いにあるかと思いますが、現代日本においてそれなりの発言力をもった人物であることには代わりないでしょう。

 

上野千鶴子の「みんな平等に、緩やかに貧しく」とか細川護煕の「欲張りな資本主義ではなく、心豊かな成熟社会に転換」などの主張は正直、それこそ左派の中でもそれほど受け入れられないというか、センスのいい主張として支持を集めるものではないでしょう。

それをあえて左派代表のように取り上げてボロカスこき下ろすというやり方はストローマン論法以外の何物でもないでしょう。さらに、そこに自らの知人という循環型社会の実践者を取り上げてみせて、あたかも左派全体がそのような生活の礼賛者であるかのように誘導してみせる、というのは悪質以外の何者でもないでしょう。

 

さらにもっとも致命的であるのは、佐々木俊尚自身は、彼の言う上野千鶴子細川護煕による「能天気な」主張というのは、彼の言葉で言う「社会のシステムを考える時に公私を混同」して語ってしまっている、と主張しているわけです。

 

しかしながら、彼が「経済成長を目指す必要ない」と言う主張を批判するときに提出している論拠というのは、彼自身の著作からの引用なのであるから、ある意味、彼の中での循環論法なのである。

根本的なところでは、相対的貧困率の上昇、具体的にはシングルマザーや中高年ひきこもり、非正規雇用者を上げ、「現状がただでさえこうなのだから、(経済成長しないことにはこれらの人々は救われようがない)」という主張をしている。

しかしながら、こういう主張というのは僕からすれば自明ではなくて、寧ろ、経済成長を志向した社会であるからこそこのような相対的貧困の苛烈化が起きていると言えなくもないわけですし、経済成長すればこのような問題が解決できる的な思考はトリクルダウン理論的な水モノ以外の何物でもないと思うんですがこれは…

まあこの辺の議論については多様な立場からの異論・批判があって然るべき内容かと思いますし、現代社会における理性ある知識人たろうとすれば、そのような批判を意識してものを語るべきではないのでしょうか。

それを「たわごとと言われてもしかたないだろう」などと一笑に付すようなパファーマンスはして強がってみせているものの、このような姿勢というのは理性的な反論が困難であることの表明であるとも言えるわけで。

とにかく、彼の立場を自明ではない立場の人も射程範囲内に収めるような議論もできていないのに、上野千鶴子細川護煕らを公私混同という名目で切って捨てるというのは、

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って感じですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月の中津ボードゲーム会。

 

本日はおよそ月に一度の中津ボードゲーム会でした。

 

ボードゲーム会の前に、会場の中津ぱぶり家近くのスパイスカレー梵平で昼ごはん。

本日のミックスはいつものキーマと、エビとアサリと鶏ミンチのカレーでした。いつものことながら素晴らしくうまい。

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※中津にもいろいろ有名店も多いですが、僕は梵平のカレーがいちばん好きですね。姉妹店のダイヤモンドビリヤニともどもおすすめです。

 

それはさておき、本日の中津ボードゲーム会は入れ替わり立ち替わりで総勢11名の参加でした。

この会はわりとガチのボードゲーマーというよりは比較的ライトな参加者が多い会ですが、今回は今日がボードゲームデビュー!という方もいらっしゃるくらいでした。最近はメディアで取り上げられる機会も増えていますが、ボードゲームの輪がもっと広まるといいですね。

 

 

1.宝石の煌き(Splendor) 

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プレイ時間:30~40分。

宝石商人となって宝石を買い集め、商人としての栄誉を競うゲーム。

宝石チップ(トークン)を集めて「宝石カード」を購入する。買った「宝石」は新たな「宝石」を購入する際の原資となり、購入コストが安くなっていく…余談ですが、こういうジャンルのゲームを”拡大再生産”系とか言ったりしますね。

僕がボードゲームの中でも最もやりこんでいると言っても過言ではないゲームですね。

今回は3人でプレイ。3人だと特にトークンが枯渇しがちでカツカツの戦い。

今回はきれいに緑3青3白3と綺麗に揃えて貴族を呼んで、僕が勝利

 

2.キレイがキライ

 

Drecksau: Kartenspiel für 2-4 Spieler

 プレイ時間:10分。

自分の豚を泥んこにするゲーム。せっかく豚を泥んこにしたと思ったら、他プレイヤーに洗われちゃったり、雨に流されたりするゲーム。雨除けの豚小屋を建てたと思ったら、雷を落とされて破壊されるので、避雷針を設置するとかよくわらかん。

 

3.ワードポーターズ

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プレイ時間:20~30分

言葉の連想ゲーム。限られたワードの中から3つのヒントを選んで自分のお題を他のプレイヤーに当ててもらう。素直に当ててもらおうと最善のヒントを出したつもりがまかり間違ってディスコミュニケーションが横行する…

同人ゲームですが、コンポーネントがなかなかしっかりしています。6人でわいわい遊びました。

 

4.キングドミノ

キングドミノ 日本語版

プレイ時間:20分

ドミノ(タイル)を集めて、地形を合わて配置し、領土を広げていく。2016年のドイツ年間ゲーム大賞ノミネートの3作品のうちの1つ。地形をきれいに合わせてハマると気持ちいですね。サクサク遊べてボドゲやってる感もあっていいゲームですね。

 

5.フィルムを巻いて!

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 プレイ時間:40分

フィルム式のカメラをモチーフとした作品。フィルムを巻いて写真を取る、煩わしさ、もどかしさ、不自由さ、しかし味わいがうまくゲームに落とし込まれている。

これまた同人ゲームですが、デザイナーさんのこだわりが光る印刷加工もいいですね。

 

 

6.テレストレーション

テレストレーション日本語版

みんな大好きお絵描き伝言ゲーム。

 

7.バトルライン

バトルライン 日本語版2016

名匠:クニツィア先生による二人専用ゲーム。ポーカーと7並べの二人対戦ゲーム。

これも好きでかなり遊んでるゲームですね。

 

7.ミステリウム

ミステリウム 日本語版

協力ゲーム。幽霊役のプレイヤーが探偵役の他プレイヤーたちに連想ゲーム的なヒントを出していき、自分を殺した犯人を当ててもらう…的なゲーム。

 

8.パンデミック:完全治療(ザ・キュア)

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協力ゲームの名作:パンデミックのダイス版。未知の感染症パンデミックから人類を救うべく、地球を奔走するゲーム。いっぱいダイスを振れるところも含めて僕はこっちの方が好きですね。

今回は初回はバイオハザード出しまくりでエピデミックが頻発し、難易度Ⅰにもかかわらず、治療薬を1つもできずに人類が滅ぶ…

さすがにあっさり終わりすぎたので2度目のトライ。

 

 

9.ハゲタカのえじき

 

カードゲーム ハゲタカのえじき 日本語版

シンプルないわゆるバッティングゲーム。ボドゲ初心者の方にまずはこれ!

 

 10.犯人は踊る

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招待隠匿系ババ抜き。

 

11.キャットアンドチョコレート幽霊屋敷編

キャット&チョコレート

幽霊屋敷探索中に起こる不測の事態を手持ちのアイテムを使って乗り切る、という大喜利風味のゲーム。ノリと勢い。

 

他にも稼働しているゲームもあったかと思いますが、とりあえず覚えてる範囲で。

 

今回は協力ゲームとかコミュニケーション重視のゲームを多く遊びました。

次回は7月かな。

人文科学の敗北。あるいは。

 

上司が海外赴任にすることになった(非英語圏)。

赴任までの間、語学研修として民間の語学講師による現地語の授業を1対1で受けているらしい。

その語学講師の方は、大学院を出て、本業としては大学で語学の非常勤講師をしており、副業的な感じで企業向けの講師派遣派遣をやっているらしい。

ということは、その講師の方は地域研究なり文学研究なりの方なんでしょう。まさに人文系な方なわけですね。

 

さて、上司の話に戻ります。

この上司、当初は新天地に対するモチベーションも高く、語学研修にも前向きでした。しかし、40代半ばのおっさんにとっては新規言語習得はハードルが高かったようで。全くもって語学の覚えがよくないらしく、これには講師の先生も呆れ顔。

きっと受け持っている大学生よりも覚えがよくないんでしょう。

上司は自分の不勉強そっちのけで講師に対する不満をだらだらと垂れ流し、しまいには業者に連絡して担当講師を変えてもらおうかなどと言い出す始末。

 

いやまあ人文系の院卒の人で、アカデミズムの世界に残りながら食っていけているというのは比較的いい方なのかもしれない。しかしながら、食い扶持を稼ぐためにはこんな無教養なおっさんにボロカス言われなければならないとは…なんだかなぁというかいたたまれない気持ちになりました。

あえて逆説的な物言いをするならば、だからこそ人文科学は尊い、と言えるのかもしれません。

 

 

そんなこともあってか?今年の8月に2日間の日程で京大で臨床倫理の入門コースをやるそうなので応募してみました。

京都大学大学院文学研究科 応用哲学・倫理学教育研究センター

参加費無料(食費・懇親会費は別途)というのはなんとも太っ腹ですね。

 

大学で開催されるイベントに参加するのはすごく久しぶりな気がします。たまには頭を使ってこようかな、と。まだ先ですが、今から楽しみです。

 

ブログをはじめました。

思うところあってブログをはじめました。

再開したというのがより正確でしょうか。

 

学生時代は暇に任せてちまちまとよく記事を書いてました。

当時のブログは住んでいた寮でのあれやこれやから学問っぽいこと、あとアニメの話とか。

その後、会社員になってからは更新のペースは落ちつつも、書くには書いてました。

とはいえ、徐々に筆を執る機会も減り…

 

すっかりまとまった文章を書く機会がなくなってしまって約3年。

(まあ瞬間的にブログ再開しようとしたときもあったのですが…)

 

こうして改めてブログを開設するに至ったわけですが、人間、約3年もあればいろいろあるもので。

以下、大まかな変化点をば。

 

ボードゲームにハマって、すっかり趣味となる。

・知人とコミュニティスペース(※中津ぱぶり家)を運営する。

・走らなくなる。山も登らなくなる。

・結婚する。

・子供が生まれる。

 

その一方で変わらないことも。

 

・合成樹脂を売ることを生業としています。

・関西に住んでいます。

・SF読んでます。

・深夜アニメを見ています。

 ※今期は「月がきれい」がいいですね。

 

まあちょっと中津ぱぶり家の関係者で9月の文学フリマ大阪へ出展するという話になったのでリハビリも兼ねてつらつらと仕事以外でも文章を書いていこうかと思ってます。

ボードゲームとか中津ぱぶり家のこととか書いていこうかと思います。

では。