急がばしゃがめ

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませては目を回す。人文系だけど高分子材料でご飯食べてます。。SF読んだり、ボードゲームに遊ばれたり。一児の父。

宗教学専攻の端くれとして ー安倍元首相銃撃事件と統一教会ー

こんばんは。久しくこちらを更新していませんでしたが、最近あまりにもあまりにもで気づけば某所にまあまあの文量を書き込んでいたのでせっかくなのでこちらにも。

 

先般の安倍元首相銃撃事件を機に統一教会といったカルト教団のあまりに酷い搾取の実態や社会的に孤立せざるをえない宗教2世の苦しみがSNSやネットメディア中心に取り上げられる機会も増えております。これでも僕は学生時代は宗教学研究室に在籍しており、の傍らインカレ系神社巡りサークル(!?)の神社を巡らない方の部会(???)に顔を出すなどしていたので硬軟さまざまな宗教ネタのストックがあるため、この辺の話題に関心をもった妻に当意即妙かどうかはともかく、いろいろと話題提供ができるので多少は人文知的なものを世に還元できているのかなと思ったりしたています。

こういう話をすると煙たがれるのは重々承知の上ですが、改めて宗教学専攻かつ宗教文化士なる資格をかつて保有していた(現在は更新料をケチり資格停止)者としてお伝えすべきこともあるのかと筆を取った次第です。

統一教会(安倍政権下で極めて異例な措置として改名が認められ現在は「世界平和統一家庭連合」)はキリスト教ベースとしながらも教祖は韓国人であり、保守的というか儒教的な時代錯誤甚だしい家父長制を称揚する団体です。
彼らの主張は、現自民党政権憲法改正案や自民の中でも右(というかスピリチュアル)な政治家やそのお友達のなんちゃって論客の炎上発言との親和性たるや脅威のシンクロ率であることは火を見るよりも明らかなわけです。
統一教会に限らず、日本会議に連なる宗教系右翼団体自民党議員の蜜月、癒着は自民党が2009年に下野した後、安倍元首相が再起するためにその資金や集票力を頼みとした結果として政治的影響を深めたとされています。数年前から国会でも野党により厳しく追及はされていましたが、マスコミが安倍政権に忖度したのかあるいは政治的圧力があったのかはわかりませんが、大手メディアで大々的に報じられることは少なく、今回も事件当初は「宗教団体」「容疑者が安倍元首相が教団幹部と昵懇と"思い込んで"」などと限りなく忖度した報道が飛び交っていたわけです。
参院選が終わって統一教会側の記者会見もあり、ようやくこの辺の具体的な報道が出てきたり、また宗教2世として苦慮されている方々がSNS上でぽつりぽつりと発信されるなどして露出が増えてきたのかなというところ。統一教会は一定の年齢以上の方々からすると壺を買わせる霊感商法や芸能人を巻き込んだ合同結婚式で社会問題化したことをご存知なわけですが、僕くらいの世代だとすでに統一教会を知らないという人は珍しくないでしょう(僕も宗教学やってなかったらコロッと勧誘されてあっさり信者になってたかもしれないですし)。

ましてや現政権にここまで統一教会のようなヤベー宗教勢力が中枢に食い込んでしまっているということをご存知なかったという人は上の世代の方でも少なくないのでは。


人間の認知機能の特性として正常性バイアスというのがあって、要するに何か不都合なことがあってもそのことをなにかの間違いだとしたり、過小評価したりするわけなんですが、現在の自民党による"長期安定政権"というのはそのような正常性バイアスによってモリカケ桜を見る会、学術会議任命拒否といった種々の問題を「いくらなんでも政権やその中心人物がそんな邪悪なことをするはずがない」「なにかの間違いに違いない」と見過ごされることによってその都度延命どころか強化されてきたわけですが、さすがに今回の銃撃、さらには統一教会系団体でスピーチする安倍元首相というなかなかにインパクトあるムービーでいよいよ認めざるを得なくなったという方もきっといらっしゃたものだと思います。それはさながら映画、猿の惑星のラストシーンみたいなもので、これまでうすうす感づいていても見てみぬふりをしてきた、認めたくなかった事態として、日本全体が宗教右翼のえげつけない影響下にあったという現状が自由の女神よろしく眼前に飛び込んで来てしまったというところではないでしょうか。
陰謀論だとかなんだか言う自称保守論客もいますが、選択的夫婦別姓同性婚が最たる例ですが、世論でも広く支持されながらもそれに反して遅々として法制化が進まない、寧ろ自民党憲法改正案は家父長制を再興させようという意思が色濃くあらわれている)

 

 


いろいろと書き連ねましたが、まずは現状を認めること、そしてそこから現状をよくすると言わずともまともにするにはどうしたものかと。

最後に、今回の容疑者の事情は報じられていることが事実であれば同情の余地があるようには思うし、狙われた側も聖人君子とは言い難い寧ろ憲政史上最悪の汚職政治家と言っていい邪悪な人物であったけれども、だからといって人を殺していい理由にはならないのは間違いない。
そして何よりも安保法制をめぐるSEALDsのような学生運動や国政選挙といった民主的な"異議申し立て"では民主主義的には膠着どころか悪化の一途であったのが銃撃によって動き出してしまうということであればそれはそれでどうなのというかこんな皮肉はないよなあなどと思う次第。。

 

こういう話をああだこうだと語り合うことができたのが研究室の休憩室であり、PE班(public engagement、公共性について考える社会人サークル)の定期ミーティングといった"サード・プレイス"であったよな、と。ひとまず政治をよくしていくには一足飛びの手段に頼らず、地道に政治について日常的に語ること、身近なものとしていくことだというのが穏当で退屈に過ぎるけれどそれでも確かな方法であるのかな、と。

読書の年としての2021年

気づけばもう大晦日ですね…などと紅白歌合戦をみながら書いていたら年越して2022年になってました。あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。

 

僕の2021年を振り返るならば、ずばり読書の年でした。

ブクログへの登録が120冊超ということで毎月10冊以上読んでいた計算に。

年明けから青崎有吾あたりから本格ミステリを”発見”し、読書熱がヒートアップ。ゴリゴリ読書量が増えました。

 

せっかくなので、この一年で読んでよかった本を中心に五選。

 

booklog.jp

 

1.逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』

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独ソ戦、女性狙撃兵との設定とアガサ・クリスティー賞史上初の審査員全員満点という前評判の高さに加え、百合展開への淡い期待から読み始めてみれば、それらの期待値の何倍も上をいかれた。

「おすすめの一冊は?」と問われれば間違いなく即答するのがこちら。

新人作家とは到底思えない骨太な物語、そして主人公セラフィマが物語の終盤で「敵」を撃つシーンに「百合」の一語では語ることのできない業の深さが結実される。

現代日本の男性作家がこれを書くのか…と感慨に浸らずにはいられない。

 

2.月村了衛『機龍警察白骨街道』

honto.jp

新刊が出るたびにミステリ界隈のランキングを賑わせる大河警察小説シリーズにして僕が最高の小説と信じて疑わない機龍警察4年ぶりの新刊。

今作ではタイトルの通り、ミャンマーが舞台なのですが、前作同様にミステリマガジンでの連載を追いかけていた身としては、東京オリンピックの大会準備・運営のあまりの拙策さが白骨街道になぞらえられたり、そしてなによりもミャンマーで軍事クーデターが起きてしまうといったまさに「同時並行」的な展開に打ち震えたものです。

個人的にはクローズドサークルものの本格ミステリがはじまるところとか、これまで設定上の存在は提示されるも作中未登場だった<規格外>第三種・機甲兵装としてジオンのモビルアーマーみたいなやつが突如として出現し、暴れまくる展開がツボりました。

 

3.アレックス・パヴェージ『第八の探偵』

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7篇の作中作である短編ミステリとその作者の男と女性編集者の対話を描く小説。

日本の新本格ミステリの文脈でしばしば論じられる「後期クイーン問題」(作中で探偵が示す”解決”が唯一絶対の真相と特定されるか)を意識しているとしか思えない凝りに凝った構成。各短編がそれぞれに独立して楽しめる完成度であるだけでなく、読み進めていくうちにどんどん深みにハマっていく。

 

4.『ユーロゲーム 現代欧州ボードゲームのデザイン・文化・プレイ』

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ボードゲームに関する社会学的研究の本。ボードゲーマーなら読んで損なし。

個別記事にも書きましたが、ボドゲのムック本もなかなかヒットしてるみたいだし、メカニクスの本も出てるけど、こういう人文系文脈の書籍も翻訳出版されるってのはとてもいい時代だな、と。

meirin213.hatenablog.com

 

5.武田綾乃響け!ユーフォニアム

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アニメのTVシリーズは視聴済みだったものの、アンソロで読んだ武田綾乃作品がよかったので本作を書店で手にとってみたならば、どハマリしてしまい、シリーズ11冊を怒涛のように貪り読みました。エモい。3年生編も劇場版やるんですよね?

 

 

読書量が増えるといいものとの出会いも増えた一方でイマイチな外れをひいてしまうこともままあったかな。自分のセンスを磨きつつも、空振りもまた楽しめる余裕を忘れずに行きたいところ。

2022年はどれくらい本を読めるでしょうか。忙しくなりそうなので21年ほどでは読めないだろうけれど、100冊はキープしていきたいところ。

本年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

24連休に入りました(あえて餅の絵を描く

諸般の事情により24連休に入りました。

(お察しください)

 

こんなに長い休みというのは学生の時分以来。

コロナとかなければ海外旅行とか行けたんでしょうが。

長期休暇になったらこれをやりたいと近年温めていたものを書き残しておきます。

学生の頃に帰省や合宿の度に学術書をあれやこれやと荷物に積み込んだものの…ボードゲーマーがボードゲーム会に遊びきれないほどのボードゲームを持ち込んだりするのと同じようなことになると自分でもわかってはいるのですが、まあ公言しておくことで多少は意欲が向上するのでは、とわかっちゃいるけどあえて餅の絵を描いてみるのです。

 

1.積みゲーを崩す

→買ったはいいけど遊べていないボードゲームを遊びたい。

 とりあえずボドゲ購買を抑制していたとはい、この1年の積みゲーを。

 ・プラハ 王国の首都

 ・カスカディア(Cascadia)

    ・キャノピー(Canopy)

 ・オルレアン

 

2.お勉強(お仕事)

→化学と物理の基礎が欠けている(そもそも化学は高校でちょろっと、物理についてはさっぱりやっていない)と反省する昨今。せめて高校レベルは押さえておきたい。

 

3.お勉強(趣味)

→学生の頃からの科学史とか科学技術社会論への興味が材料メーカーで働いていると膨らんでいくんですが、最近は化学物質規制とかも絡んでいるのでこの辺掘り下げたやつとかを読みたいよなあなどと。

 

4.お祝い

→最近といってもここ半年くらいですが、慶事のあった友人が二人ほどいるのでそれぞれお祝いをしておきたいな。土日は動きづらいのでこういうときこそ。

 

5.帰省

→気づけばコロナ前から2年半ほど帰省していないので実家の富山へ。

 年末に帰るに至っては6年ぶりかと。もちつきとボードゲーム大好きおじさんとして甥っ子たちと戯れる。

 

6.読書

→あと4冊で年間120冊に届くのでもうひと息ですね。

 

 

さて、どの程度実現できるのか。

『ユーロゲーム ― 現代欧州ボードゲームのデザイン・文化・プレイ』読書メモ

英語圏ボードゲーム研究の本が邦訳出版されました。

ありがとう、ニューゲームズオーダーさん。

www.newgamesorder.jp

 

今年は『ゲームメカニクス大全』も邦訳出版されたし、ボードゲームそのものの人気だけでなく、関連書籍も邦訳されるのは大変喜ばしいことですね。『ゲームメカニクス大全』然り、クニツィア先生の『ダイスゲーム百科』然り、これまで邦訳出ているボドゲ関連本はボードゲームそのものあるいはボードゲームデザインについて説明・解説する本が多かったですが、本作はボードゲームをプレイする人々であったりコミュニティに注目した社会学的アプローチの本となっています。もちろん、ボードゲーマーとしてはゲームメカニクスやデザインの本がでるだけでも有難き幸せですが、人文系でもある僕としてはこういう本も訳されるようになるとは、ほんとうにいい時代になったものだな、と。

honto.jp

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前置きが長くなりましたが、スチュワート・ウッズ著『ユーロゲーム ― 現代欧州ボードゲームのデザイン・文化・プレイ』の書評と言うには忍びない、読書メモのようなものをおいておきます。

 

メモ①”ボードゲーム

英語圏でもボードがなくともボードゲームというようだ。言われてみれば世界最大のボードゲームサイトもBGGことボードゲームギークであるし、何を今更と言われてしまうかもしれないが。

しかし日本でも同様にボードゲームとよびならわすのは英語圏の言い方に引っ張られているのか、それとも独立にボードゲームと(実態とは異なるにもかかわらず)総称する事態が生じたのか。前者なのかとは思うのだけれど、それが広まるにはその語感への共感のようなものは必要だろう。ボドゲでひっくるめる感覚が普遍的なものなのかあるいはという検討もおもしろそう。

一応テーブルゲームという矛盾のない言い方もあるにもかかわらず、ボードゲームの語の方がはるかに市民権を得ている現状というのはなかなかに不思議なものだな、と。

 

読書メモ②なぜ「ドイツがユーロゲームの中心たり得たか

ドイツでは第二次世界大戦以降、戦争が文化的タブーとなったため、(ウォーゲームが栄えたアメリカと異なり)多様なテーマ、メカニズムのゲームデザインが花開いたという通説。このような話はボドゲ界隈で耳にしたことがある方も少なくないだろう。それなりに説得力はあるのだけれども、本書ではドイツのデザイナーたちの言をいくつか引くことでそのアイデアを補強してはいるのだけれど、逆にそれ以上の論拠が提示されたり、批判的な吟味・検討というものがない。まあ立証すること自体が難しい類の問いではあるのだけれど。

そもそも戦争がタブー視されたのはドイツだけが特別ではなかったとか、実はドイツにおいても戦争をモチーフとした作品が人気を集めていないわけではなかったとか、あるいはユーロゲームとされているのは戦争の要素を巧妙にすり替えただけに過ぎずその本質は戦争と同根であるのだ(まあそのすり替えの努力や工夫こそが文化的には重要だという反論もあろうが)とか、もっと批判的な検証・検討を含んだ異論が挟まれる余地があるように思う。残念ながら私自身にはそれをなす知的な体力と語学力が欠如しているが…

 

読書メモ③布教と段階的発展説

英語圏においてもボードゲーマーは布教に熱心だという。

初心者を引き込むのにうってつけのボードゲームを「ゲートウェイ・ゲーム」とか言うのだという。これはいい表現なので今後積極的に使っていきたい。

しかし、ここで気になるのはこの「ゲートウェイ・ゲーム」という表現にも見られるようにボードゲーマーは要素があまり複雑ではなく、プレイ時間が短めのいわゆる軽めの

ゲームから始めて、ゲームシステムや駆け引きに徐々になれていくなかで要素がてんこ盛りでプレイ時間の長いいわゆる重ゲーへシフトしていくというボードゲーマーの段階的発展説がプリミティブに前提とされている印象を受けなくもない。日本ではというかしばしばTwitter日本語圏では定期的に盛り上がる類の話題だが、こういった単純な発展説にはわりと疑義が投げかけられることが多い(いきなり重ゲーから入って華麗に沼ったとか、そもそも重ゲーを高位、軽ゲーを低位とするような枠組みは不当だとうか)。英語圏ではこのような段階的発展説への懐疑論もそれなりにあるのだろうか。

 

読書メモ④リプレイアビリティと積みゲー

著者がBGG(世界最大のボードゲームサイト)で実施したアンケート調査で、ボードゲームの悦びとは何かを問うたところ、ほぼ100%がリプレイアビリティを挙げたという結果が示されている。

これに対して、「大量のゲームコレクションをため込むゲーム・ホビイストの習性を考えると、ここでのリプレイアビリティの強調は何か皮肉だ」と筆者は述べるわけだが、これは本当にその通りで積みゲーを抱える僕としても胸が痛いわけだけれども、非常に興味深い問いであるな、と。

ここでのリプレイアビリティというのは基本的にはチェスや将棋といった伝統的なアブストラクトゲームとの対比というのを強く意識されているようだ。ちなみに、本書の原語での出版が2012年(元になった博論は2011年)にということを考えると、2010年代中ば以降に隆盛し、一ジャンルとなったレガシーシステムボドゲコミュニティが経験したあとでもこのような高い率が記録されるかは気になるところ。

それはともかく、伝統ゲームとの比較を持ち出すまでもなく、近年のボードゲームはプレイヤーキャラクター固有能力だとか多数のゲーム目的や、ゲーム内の選択モジュール等リプレイ性を高めるデザインがこれでもかとばかりに実装されているが、実際にあまりにたくさんのボードゲームが日々発売され、話題となるために実際に1つのゲームを遊べる回数は減っているだろうし、遊ばずに積まれたままのゲームが増えていたり、積むのを避けんとして買い控えることも多いだろう。

この筆者の指摘には僕自身も痛いところを突かれたと反省する次第だが、それだけにしておくには惜しい。このボードゲーマーのパラノイア的習性あるいは本能、あるいはリプレイ性を称揚しながらも実際には1度プレイしたらいい方みたいな自己欺瞞はなんなのか。もちろん、繰り返し遊べるという可能性自体に価値があるのだという論の展開もできないこともないだろうが、この矛盾に真摯に向き合うべき時がそろそろ来ている気がする…が、たぶん今後も積みゲーは増えつづけるだろう。

 

読書メモ⑤ある種の規範主義

本書ではBGGを通じたアンケート調査という形式をとってはいるが、筆者自身がボードゲーマーのボードゲームに対するスタンスとしてある特定の立場ーークニツィア流に言うとこうだ。「ゲームをプレイする時、その目標は勝つことだが、重要なのは目標であって勝つことではない」ーーを支持する立場を隠していない。

この立場自体は私自身を含めたほとんどのボードゲーマーが同意するところだろうが、社会学的調査・研究者としてはこのような規範的な語りというのはいかがなものか。

やはりボードゲーム界には勝利至上主義者も散見されるし、逆に必ずしも勝利を志向しないプレイヤーも存在するかもしれない(前者は場の空気を悪くすることはあるかもしれないけれど、そのことを全員が目標とするという建前でプレイしている以上そのことを100%悪だとみなして全面的に咎めることはできないように思える。後者についてはボードゲームの成立を危ぶませるので非難ないし排除を正当化できそうな気もするが)。

筆者自身が社交の場としてのボードゲームというものを強調するのが本書の主旨であるにもかかわらず、特定の立場を称揚する一方でそうではない姿勢を排除することを肯定するようなスタンスというのは個人的には疑問が残る。

これは僕個人としての嗜好というか志向にもなるのだろうけれど、ボードゲームの社交的側面を強調するのであれば立場の異なるプレイヤーへも開いていく姿勢を追求できないものかとは思う。現実的にはクローズ・オープン会の厄介なプレイヤーの対応とかはそんな悠長なこと言っていられないというのもわかるが。

風立ちぬ 評(2013年)

金曜ロードショーで『風立ちぬ』をやっていたみたいなのでそういえばと上映当時に書いた文書をサルベージしてみるなど。

 

 

以下、2013年の文書

 

先日、ようやくスタジオジブリ最新作、「風立ちぬ」を観てきました。僕は、前作の「コクリカ坂から」については劇場でボロボロ泣きしておきながら、その内容についてボロクソに批判するという不可解なことをしていたりするのですが、本作についてもそういった僕にラディカルな反応を引き起こすものを期待していたのですが…

本作は僕を泣かせることもなければ憤らせることもなく、感情を昂らせることのない実に淡白な作品でした。それはまあこの作品で描かれていること、描こうとしていることがあまりに妥当というところに尽きるのではないかと直感的には思うのですが、その辺の検証できるかどうかはさておきとりとめもなく書きます。


(以降、ネタバレを含みますので(ネタバレがどうこうという作品ではないと僕は考えますが、)ご注意ください)

 

まず、冒頭。二郎少年が飛行機の設計者を志すところから物語は始まります。(近眼という身体的制約から)「飛行機に乗る、操縦する=空を飛ぶ」ではなく「飛行機をつくる」ことに夢見るというのが歪みのようなものを軽く感じさせます。
その後彼は少年の日の夢を成すことにただひたすらに邁進する。その背景として病弱な少女、菜穂子との恋が描かれ、その夢が実現とともに、菜穂子の死が描かれることで幕引きとなる。

序盤から一貫しているのは二郎の飛行機の開発に対する、その情熱、純粋さ、真っ直ぐさ。それは裏を返せば、人間としての他の責任を放棄しているとも言える。
つまり、作中でも触れられているように、その時代において飛行機をつくることとは兵器を、戦争・人殺しの道具をつくることに他ならない。しかし、そのことについて二郎が葛藤するような描写はほとんどない(と記憶している)。彼は自分のやっていること、成さんとすることがもたらすものについて自覚的でありながら、努めて無自覚であろうとする。技術・科学技術の発展・向上という価値中立とみなされる領域に留まろうとするばかりで、その技術の帰結するところ及びそのことと自己との関わりについては判断停止を決め込んでいるようである。
彼がそのような確信犯(誤用)的姿勢によって見て見ぬふりをしてきたものとは終幕の菜穂子の死、および終戦を経てようやく彼に重くのしかかってくる。兵器ではない飛行機をつくることができる可能性が開けた状態にあっても、二郎の目には少年のようなきらめきはなく。
この悲劇には2つの原因がある。
1つには、技術や科学技術が潜在的に有する向上・進歩・発展という方向への推進力。一度ドライブがかかってしまえば、その推進力を止めることは非常に困難で、心弱い人間はそれに巻き込まれただひたすらに突き進むしかない。それは飛行機に魅せられたばかりに、愛していると言った女性さえもただ道具のように利用するだけ利用して死なせてしまった二郎は何も特別に人として欠陥のある存在ではなく、誰しもがそうであったのであり、そうでありうるのである。

もう1つには、各人が個人個人に割り振られた職務の範囲内に閉じこもることによる全人格的な責任の放棄。3.11後に原発事故と第二次世界大戦(日本軍の意思決定やホロコースト)を結びつける議論が散見されたけれど、残酷は悪人がなすのではなく、(倫理的な葛藤から目を背けることで成立する)誠実な職業人こそがなすのである。

二郎という人物は、(結果的に?)職業人として職務に忠実である様が作中で描かれるが、内面としては自身の欲望に忠実であったという方が正確であろう。夢や志望のままに生きることは美しいとされるが、その美しさとうのは、それが美しくあるためにさまざまなものを切り捨てていることを忘れてはならないし、そのことを予感させるからこそより美しくあるのだろう。

まあ僕からすればそんな美しさなんかクソ食らえであり、泥の中にまみれてもがいて息絶えたいと思うのです。

最後に。
作品の主題と思しき「生きねば」とは何なのか。近代システムに飲み込まれ(たように偽装し)て、システムに生かされるのではなく、極めて厄介な倫理的葛藤を含めて全人格的責任を引き受けるような生き方を回復せよ、と。それこそが生である。と。

 


ジブリゼロ戦開発者の物語を描くというからどんなにか矛盾に満ちた刺激的なものになるかと期待していたのにあまりに穏当な落とし所であり、ひどく物足りなさを感じた次第です。

ウイングスパン オセアニア拡張(大洋の翼)にみるゲームデザイン

今月初に日本語版が発売されたウイングスパンの拡張第2弾、大洋の翼を先日ようやくプレイ。

基本は北米大陸、拡張第1弾はヨーロッパ、そしてこの拡張第2弾ではオセアニアに棲息・分布する鳥たちがカードとして登場。

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ヨーロッパ拡張では鳥カードや目的カードの追加と基本の延長上、新要素もラウンド終了時能力くらいでプレイ感は大きく変わらない…オセアニア拡張もそんな感じなのかと思いきや、「花蜜」という新たなエサ種の追加を基軸にプレイボードも新調され、となかなかに派手な変更が。

ドイツ年間ゲーム大賞を受賞するなど十分に成功しており、ヨーロッパ拡張も評価高いのになぜこんな冒険をするのか…と思っていたのですが、版元であるストーンマイヤー社の社長のジェイミーの発売記念コメント動画をみて得心がいった次第。

こちらの動画。字幕つきで9分くらいなのでぜひ一度ご覧いただきたい。


『ウイングスパン拡張:大洋の翼』 その魅力(日本語字幕付き)

 

この動画の冒頭でも言及されていますが、これまでのウイングスパンでは圧倒的に卵プレイ=草原を主軸としたプレイが強かった。単純に卵1個で1点なので他のレーンを軸にプレイするよりもはるかに点数を伸ばしやすい。さらに意識的に草原に起動時能力で得点力の高いカードを揃えておけば、終盤には鳥カードをプレイするよりも草原で産卵アクションを打つほうが点数が伸びるのもしばしば。

ウイングスパンは鳥たちの生態的特徴を丁寧かつ効果的にゲームシステムに落とし込みつつ、それでいて優れたゲーム性・ゲームバランスを有しているところが高く評価されているわけですが、制作陣はそこに飽き足りなかった。

やはり鳥のボードゲームである以上、プレイヤーが産卵アクションするばかりよりも、鳥カードをたくさんプレイする姿が好ましい、よりゲームのコンセプトにマッチしているだろう。

ということで「プレイヤーたちが鳥カードをたくさんプレイする」ことを促すような大掛かりな調整がこのオセアニア拡張で試みられている。

 

目立った変更点というか新要素としては花蜜=ワイルドとして使えるエサ。プレイしてみるとこれがわりと潤沢に手に入ることがわかる。6面ダイスのうち2面(従来の麦のみの目と果実の目がそれぞれ麦/花蜜のと果実/花蜜になった)で出るだけでなく、オーストラリア拡張の鳥カードの能力ではわりと蜜をばらまく能力が多い。

さらに、新しくなった個人ボード。草原の卵アクションが弱体化しているというのが最も直接的な卵プレイ抑制策ではあるけれど、地味に森林アクションが強化されている点にも注目したい。さらに、鳥カードの中には起動時能力で同列に鳥カードをプレイできるものやプレイ時能力で同列に鳥カードを続けてコストを割引いてプレイできるものなどが入った。

ヨーロッパ拡張の時点でラウンド終了時能力で鳥カードをプレイできるものが追加されているが、オセアニアではさらにゲーム終了時能力で鳥カードを追加でプレイできるものもある。

ジェイミー氏のコメントにあるように、制作サイドはプレイヤーにどのようなゲーム体験を提供したいのか、というところからゲームデザインを組み立てているのだなと感動した次第。売れればいいとかゲーム性があればいいとかではないのだなと。

 

ちなみにこの売上の一部がオーストラリアの森林火災の義援金に充てられるというところも含めてほんとにいいゲームだな、と。

 

いろいろ持ち上げていますが、ウイングスパンをそれなりにやり込んでいる身としては感じ入るところのあるこのオセアニア拡張のアレンジコンセプトであるけれど、やはり考えるべき要素が増えて長考しがちになって全体的にもっさりする印象も拭えない。花蜜消費マジョリティとかプレイ時間が長くなってしまうのは避けられない。

 

まあでもこの花蜜のプレイ感とかを一度体験してしまうともう戻せなくはなってしまうんですが。

オセアニア拡張を2度プレイした感じでは兎にも角にも森林プレイ、とりあえず森林に5枚揃えるってのが強いかな。少なくとも草原プレイに走るよりは。知らない鳥カードがいっぱいあるのは楽しいですね。コロナ禍にあってはなかなか研究進まなそうですが。デジタル版に基本だけでなく、拡張が一日も早く追加されることを願うばかり…

 

それにしても、オセアニア拡張のモモイロインコ強くないですか。これまで起動時能力単体で2点生み出すには、カードを一枚差し込んだそのカードに卵1個産めるとか全プレイヤーが特定の巣の鳥カード1枚に卵1個産み、起動したプレイヤーのみ2枚に置けるとかそれなりにコストや卵マネジメントや利敵要素が強かった。それに対してこいつは麦を得るチャンスを他プレイヤー一人に与えるだけでコスト消費なく2点得られるというのが強い。

 

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もっとウイングスパンを遊びたいです…

 

ウイングスパン攻略の基本~鳥カード5強~

最近Steamでよく遊んでいる大人気ボードゲーム/ウイングスパンについて、攻略というかプレイのコツというか。

 

遊べば遊ぶほどに決まった勝ち方がないことを痛感するこのゲーム。いかに場に応じて、流れに沿って最善手を打っていくか、ということに尽きるんですが、それでも定石とまではいえなくともどのような形が強いか、どのような状態を目指すべきか、という

戦略の骨子の部分について言及している攻略記事があまりないようでしたので備忘録もかねてこちらに書きます。

 

まず、戦略云々の前に、ウイングスパン(基本)には(こう言っては身も蓋もないですが、)これを序盤に、ましてや初期手札で引いてしまえればほぼ勝ちは手中に収まったと言っても過言ではないくらいの強カードが存在します。

(そうは言ってもそれだけで勝敗が決まるほどの単純なゲームであればここまで人気がでるはずもなく、この辺の奥深さは遊べば遊ぶほどに染み入るように味わえますので安心して繰り返しプレイいただければ)

「カラスが強い」というのはよく言われますが、他に抜きん出た強さを有するのはカラスだけに限りません。ずばり、ワタリガラス、シロエリガラス、フタオビチドリ、アメリカズグロガモメ、アメリカオシの”5強”です。

この5強カードがなぜ別格に強いかを読み解いていくことが、ウイングスパンにおける戦略すなわち安定したプレイングとして目指すべき姿が見えてきます。

 

 

1.ウイングスパン界の5強 

まずは”カラス”から。

 

ワタリガラス

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ワタリガラス

・シロエリガラス

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シロエリガラス

言わずと知れた強カード。拡張第2弾(オセアニア拡張・大洋の翼)では公式にバリアントとしてこの2枚を抜くとする旨の記載も(これにはオセアニア拡張での追加要素=蜜の影響もありますが)。

もはや解説不要かもしれませんが、このカラスたちの起動時能力は「卵を1個消費することで任意のエサを共通在庫から2個獲得できる」というもの。つまり、草原にこのカードをプレイすることで卵を得ながら、(本来は森林へ行かないと獲得できない)エサを2個も取れる、という。つまり、こいつさえ出せば基本的にほぼ森林アクションを打つ必要がなくなる。

任意、それで2個というのも十分強いですが、共通在庫からというのも地味に強いですね。ウイングスパンではエサ箱にほしいエサがない状況というのが往々にして生じてしまうのでその影響を受けないというのは安定感が出ます。

強いて欠点を挙げるならばエサコストが重い(ネズミ+任意2個)のと巣が平型(4種の巣で最も活躍機会が少ない)であることくらいか。エサコストの重さについてはそうはいってもプレイ後のアドバンテージが大きいので入手時点で森林がそれほど育っていないのであれば早々にエサを溜め込んでプレイすべきだろう。とはいえ、重いエサコストに対し勝利点が4-5点とそこまでかつ能力の度に卵=1勝利点を消費してしまうことを考慮してしまうとせいぜい2ラウンド目中には出しておきたい…逆を言うと3ラウンド以降にプレイしていては”間に合わない”公算が高いので入手してもプレイを見送るべきとも言える(もちろんコンボの状況によっては3ラウンド冒頭くらいまでは引っ張れるのかな、と。草原に(麦消費で2枚埋め込みができる)カナダガン、カナダヅルを揃えてるとかで草原に通い詰めるだけ体制が整っているとか。)。

ちなみにこいつら”大ガラス”に対し、ウオガラス、アメリカガラスというこれと同じ能力で獲得できるエサが1個という劣化版もとい”小ガラス”のカードもあります。攻略記事によってはこいつも強いから無条件にプレイすべし!と書いてあるのもありますが、私見ではこのウオ&アメリカの小ガラスは弱い。圧倒的に火力が足りない。強カードどころか寧ろ出すべきではない足引っ張る系カード。よっぽどラウンドボーナス(平型の巣)とか個人ボーナス(雑食とか)に絡まない限り出すべきでないかと。

 

・フタオビチドリ

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フタオビチドリ

アメリカズグロカモメ

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アメリカズグロカモメ

続いてはこの2枚。大ガラスと同じく卵を1個消費することで鳥カードを2枚獲得できる、という能力。これまた大ガラスと同様に草原にプレイすることで今度は森林ではなく水辺にいかなくても済むというこれまた強カード。カラスに比べてコストが低い点もエンジンの起点とするという点でもポイント高いですね。

カラスの強さばかりが注目されがちですが、個人的にはこちらのほうが好きです。鳥カードをひく機会が増えればそれだけ安定性が増す(確率を平準化できる)わけで。

あとは、カラスは他のプレイヤーがこぞってエサばらまきプレイ(エンビタイランチョウみたいに全員にエサを配る系やアンナハチドリみたいに全員が順番にエサ箱から取る能力とか)を多用した場合にその強さが薄められてしまいますが、フタオビとかの鳥カード獲得についてはそのような状況が起こりにくい(全員が鳥カードを山から引く能力もありますが、カード枚数自体がエサよりもだいぶ少ない)というのもありますね。とはいえ、出すコストの安さが入手からプレイまでのダウンタイムが少ない=活躍機会が多いというのが地味に重要かもしれません。

 

アメリカオシ

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アメリカオシ

5枚目はこちら。他の4枚に比べればあまり強いという声を聞かないのですが、能力自体は「2枚鳥カード引いて手番終了時に1枚捨てる」という水辺の鳥としては他にもいくつかある能力ですが、このアメリカオシが強い所以はその能力を森林に配置した上で使用できる、という点。
森林アクションでエサを獲得しながら鳥カードを2枚から厳選しながら取っていけるのでこれもまた強いですね。水辺を育てることなく森林、草原に特化できる。

カラスやフタオビのような派手さはないですが、こいつは最大の得点源である草原のスロットを食わずにエンジンが組めるというのが地味に強い点。カラスとかだと終盤になると草原の火力(得点能力)が心許なくなりがちですが、アメリカオシは草原を回すことよりも得点源により特化する形で育てられるというところ。伏兵感はありますが、十分に上記4枚と肩を並べられるレベルの強カードです。

 

 2.5強の先… 

これら5強カードはそれぞれシンプルに強い能力なのですが、もう少しその強さの本質に踏み込んでみましょう。

それにはウイングスパンというゲームの全体を捉え直す必要があります。

ウイングスパンには森林・草原・水辺の3つのレーンがあり、各レーンにおけるアクションはそれぞれエサ・卵・鳥カードが対応しています。そして、そのアクションは単純にそのレーンに鳥カードをプレイするほどに強化されていくわけです(いわゆる拡大再生産とかエンジンビルドとかいうやつですね)。なので、あるレーンに特化していけば勝利点が伸びる…かというとそう単純なものでもなく、鳥カードをコンスタントにプレイしていく(”場を回す”)には「エサ・卵・鳥カード」の3要素が必要である以上、3レーンすべてをある程度万遍なく強化しないわけにはいかない。しかしながらそうしてしまうと各レーンの戦力は分散してしまいなかなか強力なアクションを打てない…これがウイングスパンの基本的なジレンマ構造になっています。

しかしながら、これらの5強としたカードは起動時能力によって、1つのレーンのアクションでもう1つのレーンのアクションを兼ねることができるので、2つのレーンに絞って鳥カードをプレイしていける。あるいはもう1つのレーンを、最終的に勝利点を伸ばすには欲しいけれど、起動時能力がつかないのでよくアクションを打つレーンに置くのは惜しいカード(素点が高かったり、プレイ時能力でボーナスが引けたり、ピンクの能力(リアクション))の置き場として最適だったりする。

 つまるところウイングスパンにおいては基本的に1箇所アクションしに行かなくてもいいレーンをつくる、ということが勝ちにつながるわけです。

しかしながら、そのような状態をつくるのに何枚もカードを使ってしまうと、そのレーンの得点力が落ちてしまったりするのでそれはそれで考えもの。つまるところ、1枚でそれができてしまうこれら5強が段違いに強いという結論になるわけです。

 

他にも細かい勝ち筋のポイントはありますが、これを理想形として進めていくのがいいわけです。しかしながら往々にしてこのような理想形はなかなか実現しないからこそ理想形なわけで。しょっぱい初期手札なり場札なりのなかでいかにうまく得点を伸ばすかの創意工夫をこらすことこそがこのウイングスパンという醍醐味ともいえるわけで。また気が向いたときに”5強”に頼らないというか頼れないときにどう得点を伸ばすか、粘るかについて書ければと思います。