急がばしゃがめ

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませては目を回す。人文系だけど高分子材料でご飯食べてます。。SF読んだり、ボードゲームに遊ばれたり。一児の父。

あけおめなるままに/SFと百合/SFマガジン百合特集 特別増大号

2021年あけましておめでとうございます。

新年一冊目はSFマガジンの百合特集号。


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https://honto.jp/netstore/pd-magazine_30744614.html?optprm=nsPrdLink#stReserve01

※増刷してるとは聞きましたが、一時品切れ中みたいですね。

SFマガジンの百合特集といえば、ちょうど2年目にSFマガジン始まって以来の増刷(それも3刷!)までいったという化け物企画。その盛り上がりを受けて編まれた百合SFアンソロジーはたいへんによかった。ソ連百合とか「色のない緑」とか。

honto.jp

 

そして、百合SF界隈の盛り上がりもあって、都市伝説(ネットロア)×百合SFの『裏世界ピクニック』の1月からのTVアニメ放送開始に合わせての百合特集第2弾はページを増量した特別増大号となった次第。それにしても、早川は百合特集もそうだけど、裏世界ピクニックに関してはかなりの”これかけ”案件ですね。そもそも早川作品のアニメ化

って劇場アニメは伊藤計劃三部作が記憶に新しいところだけれど、TVアニメというのは少なくとも近年はないのでは?(SF読みとしてもアニオタとしても中途半端な僕の見識の範囲内なのでアレですが)戦闘妖精雪風OVAみたいだし(見てないけど)、正解するカドとか

個人的には裏世界ピクニック自体は2年前の百合特集を読んだ勢いでもって3巻まで読んで正直あまり肌に合わないな…と思って気持ちが遠のいていたんですが、ミーハーな性質なものでアニメ化の報を、というよりも主役二人が花守ゆみり×茅野愛衣と聞くや、すっと続巻を買いにいったという…

ともあれ、早川のSF作品のアニメ化が当たれば次の話もあろうかという期待を以て応援しているというか、単に波が来るなら乗っておこうという気持ちであるとも。

 

それはさておき、百合特集にふれてここまで書いておいてなんですが、僕自身は「百合」というジャンルにさして思い入れとか熱とかはあまりなくて。

もちろん好きな作品の中には「百合」とカテゴライズされなくもないものも少なからずあるわけですが、ゴリゴリに「百合を書きます」と言われてゴリゴリにおされると冷めてしまうというかひいてしまうほうで。関係性の物語としてその射程がたまたま女性同士だったというレベルでいいのでは、と。百合というものに他の関係性にはない特権的なものを見出すことは難しいと思うんですよね。

ましてやジェンダー観の”進歩”というかふつうにリベラルな感覚が世に浸透していく中で、あえて百合でなければならないものを書く、描くということはどんどん難しくなっていくのだろうな、と。

というのは、SFというジャンルがテクノロジーの発展や社会変化によって、SF的想像力・創造力が「時代に追いつかれる」「追いつかれた」「追い抜かれた」と言われたりするように、百合というジャンル・概念もその根幹を脅かされているのかな、と。

そう考えれば、SFがそうであるようにある種現代社会にその実存を突かれている状況のほうがジャンルなり界隈は盛り上がったりするものなのかな、と。

 

というわけで2021年もぬるっとはじめましたが、今年もよろしくおねがいします。

チャレンジャー号のOリングと燃料ポンプのインペラ――『解放されたゴーレム:科学技術の不確実性について』から

ハリー・コリンズ、トレヴァー・ピンチ(平川秀幸村上陽一郎訳)『解放されたゴーレム』を読みました。

科学や技術を「力持ちだが、危なかっしい」ゴーレムに見立て、その不確実性が顕在化した事例を7つの章立てで紹介しつつ、それらの価値中立や絶対的なベールを剥がしていく。。


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2001年に出ている『迷路の中のテクノロジー』の改題・文庫化。ややこしい話、改題した結果、原題に近い邦題になっています。原書は1998年に出版されているのですが、チャレンジャー号打ち上げ失敗やチェルノブイリなどいずれも同時代的なテクノロジーにかかわるトピックスを扱っている。ジャーナリズム的にはタイムリーではないけれど、アカデミズムの世界では十分すぎるくらいタイムリーで当時はとても刺激的な本だったことだろう。いまでも科学技術社会論(STS)の教科書として十分に通用する読み応えのある内容で、2020年に文庫化されるのも納得。願わくばこういうのの21世紀バージョンを読みたいと思う次第。

 

それはそうと材料屋として非常に興味深く読んだのはチャレンジャー号の打ち上げ失敗の問題。

異例の冷え込みの中で打ち上げを強行したがために、Oリングが低温下で弾性を失ってしまい、液体燃料のシールができなくなったため…

というのは比較的よく知られている話かと。

 

そして、打ち上げ前日にロケットメーカーの技術者がNASAに上記リスクをふまえて打ち上げ延期を進言したにもかかわらず、NASAはその進言を聞き入れず打ち上げを強行した…(さらにはNASAの強行には次の大統領選挙で再選を企図したレーガン大統領側の意向が働いたとも言われているが…)

というのが俗説だけれど、こちらの本によると事態は遥かに複雑。

ロケットメーカーだけでなく、NASA側も数年前からOリングのシール性の課題を把握していたのだという。まあよくよく考えれば、ゴムは低温下、すなわちTg=ガラス転移点以下で弾性を失うのは有機材料やっている人には常識中の常識。それをNASAのエンジニアが知らないはずもなく…

だからこそOリングは二重に設置されており、打ち上げまでに繰り返しそのシール性が十分に機能するかを試験で確認していた。そして、極低温下でもシール性が担保される、シール性を高めるために外側からの締め付けを強化するなどの措置もとられ、さらには仮に1つ目のOリングが機能しなくても2つ目のOリングでシールが担保されるという保険もあった。

まあ結果的に打ち上げ失敗しているわけなんでアレですが、世間で広く信じられているようにOリングに関するリスクが無視/看過されたわけではなく、リスクとして認識された上で工学的な検証を重ねた結果として許容可能なリスクと判断されていたのである。

一見にして寒冷下でOリングが機能しなかったというのはいかにもそれらしい説得力があるけれど、よくよく考えればそんな基礎中の基礎、NASAがストレートに見逃すはずもないという。

思えば最近もこんなことあったよなと想起したのは、デンソーの燃料ポンプの大規模リコール。日経あたりで業界通らしき人物のコメントとして、「原因はインペラの成形時の低金型温度による樹脂の結晶化不足→燃料の膨潤→他部材に干渉して動作不良」などと一見もっともらしい見解が述べられているが、天下のデンソーがそんな金型温度と樹脂の結晶化度の関係というようなこれまた常識中の常識を知らないはずもなく、また(小改良はあれど)燃料ポンプなんて上市から何十年と経った製品で、さらには結晶化不足の原因とされる金型温度も、デンソーじゃないにしても自動車業界において自動車メーカーなりTier1というような大手部品メーカーであれば外注先の成形条件まで管理していることが当たり前であるだろうから、こんな凡ミスが原因というのはありえないように思われる。もっと他に原因があるだろうが、それは公表・言及できない類のものではないだろうか、と邪推せずにはいられない。

 

原因究明はロケットだろうが燃料ポンプだろうが工学的にきっちりとなされていることだろう。

とはいえ、公金がたんまり投入されているロケット開発の場合は情報公開がなされるが、自動車の燃料ポンプであればそれは一企業の問題になってしまうのでそれがおおっぴらになることはないだろう。

 

ちなみにチャレンジャー号の事故原因はこの本の段階では、低温が原因というよりも、シール性を担保するために外側から締め付けを行っていたことが原因とされているらしい。因果なものであるけれど、製造業に身をおく人間としては不具合・不良対策が(期せずして?想定を上回って)新たな不具合を引き起こすということはあるあるだと思うので笑えない話だな、と。

 

いずれにしてもいい本だと思うので、この本の前身にあたる本は文庫化はされていないようだけれど、旧版でよもうと思った次第。

 

 

 

 

 

 

 

 

おもしろさを解体する―――『ゲームメカニクス大全』と『料理の四面体』

 

ちょいちょいいそがしいですが、元気にやってます。

最近読んだ2冊の相関作用によって焚きつけ?られるものがあったのでこちらに書き残します。

 

1.『ゲームメカニクス大全』


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ボードゲームにおける各種メカニズム/メカニクスを解説した本。

オークションやワーカープレイスメント、エリアコントロールなどメカニズムごとに章立てされていてさらに細かく項目に分かれて長所だとか逆に短所を実例をひきながら説明が盛りだくさんの550ページ。

エリアマジョリティってある種のオークションだよね的な視点をかえることで各種メカニクスの共通点やその関連性がみえてくるのは目からウロコな感じ。

 

カタンのプレイ準備で初期開拓地を設置する際に、2巡目は1巡目と逆順にプレイヤーが選ぶアレに「スネークドラフト」を一語で言い表すこんなスタイリッシュな言い回しがあったとは…

 

あとp.210の訳注でしれっと以下のように定義されていてなるほどってなりました。

エンジン:得点を自動的に生み出す装置

エコノミー:効率的に得点する仕組み

 

 

兎にも角にもボードゲーマーならおもしろく読めること請け合いなのだけれど、出版社なのか本屋はシステムエンジニアにオススメ本として宣伝しているのでボードゲーマーもSEもそのどちらでもない人もきっと楽しめると思うので。

 

 

などという前段はおいておき、本論はこちら。

2.玉村豊男『料理の四面体』


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僕は知らなかったんですが、エッセイストとして有名な方みたいですね。

古今東西の料理がでてきますが、それぞれの調理方法に着目してそれらを相対化して解きほぐしていく。その果に著書の言う、火、空気、水、油の4つの頂点からなる「料理の四面体」という調理理論へ辿り着く…このタイトル回収する流れが大変にスタイリッシュ。トリビア的なやや冗長でオサレ感のある語り口でありながら徹底して平易な表現で読み手を惹きつける。あれやこれやと洋の東西に現代から文明以前にまでブンブン振り回されているかと思ったら、実はそれらが有機的につながっていて結論にあたる理論を導き出すためのパーツであるというのがわかる。

「料理の四面体」という理論自体があらゆる料理をその射程にとらえる意欲的かつ優れたアイデアあるということもさることながら、それ以上に読んで思うことには…こういう本を、文章を書きたかった(合成樹脂がどうだとか、自動車がどうなるだとか、ではなく)。

 

それはさておき、僕がこの本を知ったきっかけはTwitterの模型界隈で話題になっていたから。こういう記事も。

note.com

 

さて、要するに僕としてはこの「料理の四面体」的なモデル化理論をボードゲームなりなんなりの僕の趣味の分野で構築してみたいということ。ボードゲームがなんか一番近そうな感じが。日々の多くのデザイナーたちの創意工夫によって既存のゲームメカニクスの組み合わせなり、はたまた斬新なゲームシステムから新たなおもしろさが生まれてきているわけですが、その普遍的な特徴なり共通する法則性なりを取り出してみたいものです。

その野望を実現するためにはもっとボードゲームで遊ばねば(たぶん違う

鬼滅の刃 無限列車編 煉獄さんの高潔さとその限界、炭治郎が断ち切ったもの

世のブームに乗じて鬼滅の刃の劇場版、無限列車編をみてきました。

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ちなみに僕の鬼滅履修状況はTVアニメを通してみたくらいで原作は未読です。

数ある深夜アニメの一枠くらいで流しみていた鬼滅ですが、あの19話の怒涛の戦闘演出、作画に感服し、俄然注目するようになったものの、よもやここまでのヒット作になるとは…子供を遊ばせに行った先の公園でキッズたちが鬼滅グッズを身に着けて作中の技を繰り出し合っている様をみるにつけてこの人気はホンモノだと思う次第。

 

さて、本題に入りましょう。

無限列車編たいへんよかった。

(以下、ネタバレを含みます。ご容赦ください)

 

 

なにがいいってやはり煉獄さんのカッコよさ、具体的には高潔さである。

煉獄さんは鬼殺隊最強戦力である「柱」として、最初に掘り下げがなされる人物である(と同時に最初の殉職者でもある)。そこには煉獄さんというキャラクター以上に、作中における柱の存在感、つまりそれは戦闘力だけではなく、人格的にも一等優れた人物であるということが示される。とみに人格的な部分。

劇場版の序盤における下弦の一の鬼にみせられる幻夢というか回想シーンでの一コマがとりわけ印象的。

煉獄さんが柱になった当初の出来事として、彼がかつて柱でもあったが、その後ある日を境に突然やる気を無くしてしまった父親にその報告をしにいき、無下にされ部屋を辞す。すると、弟・千寿郎が駆け寄り、不安げに煉獄さんに聞くのである。「父上は喜んでくれましたか?」

そう問うことがそうではないことを予期している悲しい質問なのだが、それに対し、煉獄さんは「正直に言おう、父上は喜んでくれなかった。しかし、そんなことで俺の情熱はなくならない!」と返すのである。

ちょろい僕あたりはこのシーンで早くもウルっときてしまっていたわけです。

これは煉獄さんが単にめちゃくちゃ強メンタルであることをあらわしているだけではなく、彼が高い倫理性も有していることを示している。つまり、煉獄さんは自らと年の離れた弟に対し、彼を守るべき対象として彼が傷つかないように父が喜んでくれたという嘘をつくこともできたわけで。しかしながら、煉獄さんは正直に事実を伝えるのである。そこには子供を庇護すべき存在、いうなれば格下の相手とみなすのではなく、対等な一個人として真摯に向き合おうとする姿勢があらわれている。

ともすれば、家父長制を称揚しているとも批判されることもある鬼滅ですが、そのような女子供を成人男性に対して、格下の存在として位置づけて対等に扱わないような思想に与しているという理解は、このような煉獄さんの言動からも明らかに棄却されるわけです。

 

しかしながら、そんな煉獄さんはその名言を放った1時間半後くらいには上弦の参・猗窩座に破れ死んでいるわけで。なぜ煉獄さんは敗死しなければならなかったのか。そして、なぜ炭治郎は生き残り、そして最終的にはラスボスであるところの鬼舞辻無惨を倒すことができたのか。この二人を対比させてみる。共通点としてはいずれも「高潔な人物」であるという点。

煉獄さんは対峙した猗窩座にその実力を認められ再三再四鬼になるよう勧められるが、そのような誘いにまったく動じず、相手にしない。かたや炭治郎も、猗窩座戦の前段である下弦の一・魘夢との戦いにおいて、血鬼術による幻術を破るために自害が必要と悟るやそれを実行に移す気力。繰り返し催眠をかけられようとも秒で自害し、覚醒するという強メンタルぶり。また、那田蜘蛛山編における下弦の五・累との戦闘における「取り消さない!俺の言ったことは間違っていない!」という言葉にも彼の倫理的信念がよくあらわれている。

とはいえ、それぞれの立ち位置には異なる点もある。

煉獄さんが死ぬ間際の回想で彼の原点が母親から与えられた「強者に生まれたからには弱者を助ける義務がある」という言葉であることが明かされる。つまり、煉獄さんは生まれながらの強者にしてノブレス・オブリージュ的価値観がその根底にあることがわかる。それは「母上、俺はうまくやれただろうか」という最期の言葉でも強者の義務によって自己を規定していたことがわかる。言うなれば思想的マッチョイズムである。

 

対して、炭治郎はというと、物語の冒頭において、為す術もなく鬼によって自らの家族を殺され、鬼と化した妹を殺さんとする富岡さんに対しても負けることを前提に抗うという姿勢からもわかるように「弱者」として自己を認識していることがうかがえる。それは煉獄さんの死に際して、「悔しいなぁ。(略)すごい人はもっとずっと先の所で戦っているのに俺はまだそこに行けない。こんな所でつまずいているような俺は煉獄さんみたいになれるのあかなぁ…」と弱音をはいており、やはり自らを弱者と規定していることがうかがえる。弱者でありながら、妹を助けたいという願望を軸に他の人々を助けたいという思いも含めて、その目的達成のために力をつけるべきだと認識し、鍛錬を積み、実際に強くなっていく。ある意味で力それ自体が刀を振るう、鬼と戦う理由になっている煉獄さんに対し、あくまでも力は目的達成の手段でしかないのが炭治郎なのである。 

つまるところ、マッチョな思想でもってして強者の責務としての倫理を実践するものとしての柱・煉獄さんはさらなる強者である上弦の鬼との実力差を埋めることができず、その前に敗死するしかないわけですが、そのような力の論理に回収されない炭治郎は、その窮地を生き延びることができ、最終的には作中最強の実力者である鬼舞辻無惨をも倒すことができるのである、と。

煉獄さんは弟・千寿郎を子供ではなく、一個人として対等に扱っているという点ではリベラルな面もあるのだけれども、死に際に炭治郎に「君の妹を鬼殺隊の一員として認める」というのは「命をかけて」隊の面々や乗客を守るために戦ったからだと理由づけており、力を軸にした評価に終始してしまっている。

ある意味で煉獄さんというのは旧来の思想的マッチョイズムを背負った人物である以上、圧倒的な力を示しつつも、それを上回るさらなる力の前に敗れ去るしかない。強者に対してはさらにその強者が常にあり続け、力や強さに依って立つ以上そこから逃れることはできない。これはジャンプ的なバトル漫画におけるパワーインフレの問題にも通底するようにも思える。

しかしながら、炭治郎が示す倫理性というのは自らが弱者であると認めることからはじめる倫理であり、これこそが本作をそのキャッチコピーである「日本一慈(やさ)しい鬼退治」と言わしめているものなのではないだろうか。

つまり、炭治郎がこの映画において断ち切ったのは無限列車と一体化した魘夢の首だけでなく、脅迫的に力を求め続けるパワーインフレの連鎖、思想的マッチョイズムの不毛さという”無限”だったのではないだろうか。

(最後にこれを言いたいがためにここまで書きました。お付き合いありがとうございました)

※それにしても劇中における無限列車の無限の意味ってなんなんでしょう。車体番号が無限として設定されているということのようですが、劇中の意味づけ、説明が特にないようですが…単に夢幻にかけているだけの話ではないとは思うのですが…ということから無理矢理このような形に落とし込みました)

レイ・オルデンバーグ『サードプレイス』

レイ・オルデンバーグ『サードプレイス』を読みました。

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日本でもコミュニティ論とかでしばしば言及される本。

家庭、職場に次ぐ第3の居場所として、居酒屋や喫茶店などの「たまり場」におけるインフォーマルな交流の重要性を説いている。

反面、アメリカ社会では郊外の自動車移動を前提とし、近隣住民間交流を促していた雑多な要素を排除した(「浄化された」)住宅地ばかりとなっていて大変嘆かわしい…という論調。基本的にオルデンバーグの言うサードプレイスが住民に家庭や職場では得難い充実感や幸福感をもたらしただけでなく、地域社会の問題解決や政治参加を促す機能を有していたというのは私も大いに賛同するところだ。

(特に後者は直近読んだ宇野重規『民主主義とは何か』で若きトクヴィルが訪米した際に、地域住民自らが地域の問題解決に取り組んでいることに感銘を受けて『アメリカのデモクラシー』を書いたという話を思い出す)


とはいえ、いくら初版が1989年ということを差し引いたとしても、多分に懐古主義が過ぎるように思われる。オルデンバーグは無菌化された住宅地やさまざまな機能をためこもうとする住宅がなぜここまで広がるのかということに真摯に向き合っていない。ただただ失われたものの再来を願うというよりは時代に即した新たな交流の場を模索するアプローチが建設的だろう。

またオルデンバーグの古臭いジェンダー観も違和感を禁じ得ない。サードプレイスは男性だけ、女性だけのほうがよりサードプレイスらしいという主張、そして、中でも居酒屋のような男性中心のサードプレイスを理論的モデルに据えていることからも家庭のあれこれを女性なりなんなりに押し付けておっさんにとって都合のよい環境を取り戻せと言っているだけと非難されてもしょうがないのでは、と。

 

とはいえ、約30年前に著者が案じた郊外の「浄化された」住宅地で交流を絶たれた米国社会の行く末が、今日の大統領選における混乱と分断であるというのなら、その懸念と主張の妥当性がおよそ好ましくない形で立証されたと言える。
現代日本社会もショッピングモールやチェーン店に大いに依存し、インフォーマルな社交の場を排除しているという点で決して他人事ではない。

日本でもサードプレイス的なコミュニティをつくろうという取り組みが各地で行われているだろうが、サードプレイスはその本質が不特定多数の人が集まることにあるのだから、特にこのコロナ禍で大いに打撃を受けている。私が関わっているコミュニティスペースも遠からず締めることになりそうだ。

それでは現代的、コロナ禍中のサードプレイスはどのようなものがありうるやコロナ後のコミュニティ論はどうあるのか。

ボードゲーム用テーブルを買いました。

先日、ボードゲーム用テーブルを買いました。

そして本日念願の搬入。

 

購入したのはこちら。

gt-marco.jp

 

壮観です。

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(画像はマルコ公式HPより拝借 https://gt-marco.jp/

 

材質はマホガニー

インドネシア産で、インドネシアの家具職人さんによってひとつひとつ手作りなんだとか。いい仕事してます。

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そして、生地には高級人工皮革のあのエクセーヌもとい、アルカンターラもとい、ウルトラスエードが使われているのだ!

なんだかすごそうだけど、いったい何エステル繊維に何ウレタン樹脂を含浸させているのか…

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といっても多くの人はマホガニーはともかく、ウルトラスエードとか知らないでしょう。材料メーカーの人間としては、こうして材料、素材を前面に押し出して製品紹介をしてくれているのをみるのはありがたい限りです。アパレル業界では機能素材で製品を訴求するというのはユニクロ×東レヒートテックの成功あたりから盛んになっているかと思いますが…

売上規模とかは抜きにして自分が扱う素材が採用された製品が世に出るのを見かけるのは材料メーカーとしてやりがいを感じるひとときですが、その製品の販促として素材を前面に押し出したPRをしてくれているのだとしたらその喜びはひとしおでしょう。そんな仕事をしたいものです。

 

それはさておき、本日こちらのテーブルが中津ぱぶり家に搬入されました。

こんな感じ。


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デフォルトの3色(青はありきたり、グレーは地味、赤は視認性に難ありそう)はいまひとつかなと思い、相談してみたら追加料金で他の色も対応してもらえるということで紫にしてもらいました。

 

 

残念ながら、諸般の事情で組み立てをするのはまだ先になりますが、平置きした状態で使い心地を確認がてら生地の色に合わせてアーボレータムをプレイ。

 


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このアーボレータム、色鮮やかな美しい街路樹たちの見た目に反して、ハンドマネジメントがカツカツでヒリヒリとした洗面器ゲー(※我慢比べを意味するボードゲーム界のスラング)。そしてとにかく得点がのびない。

だが、それがよい。日本語化されてもいいと思うんですが…

 

このテーブルを組み立てて存分にボードゲームを遊べるようになるのはいつになるのやら…

なぜそちらの側に立てないのか――『アンティゴネー』の翻案の翻案から

機会に恵まれて『ヴェールを被ったアンティゴネー』(フランソワ・オスト著、伊達聖伸訳)という戯曲を知った。

ご存じの方もいるだろうが、『アンティゴネー』という戯曲を現代フランスを舞台に翻案したものだ。

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経緯としてはたまたま私の所属している組織で東大の人文系の講義を行うという奇特なイベントを開催する運びとなり、その第一弾として本書の訳者である伊達聖伸先生の講義が開催されたのだった。

(正直、実利至上主義の極めて野暮な組織だと思っていたのでポーズといえども社員にリベラルアーツを学ぶ機会を用意するというのが率直な驚きだった。) 

 

脱線しますが、伊達先生といえば、ライシテの専門家。ライシテというのは、フランスにおける政教分離政策のこと…としばしば説明され、僕も「フランスでは公共空間において無宗教なのではなく、社会として”ライシテ”という”宗教”を奉じているのだ」などともっともらしいことを言っていたのですが、こちらの伊達先生の新書を読んでその認識の歪みを反省した次第。

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さて、本線に帰りますが、『アンティゴネー』という戯曲はギリシャ神話のアンティゴネーが題材なわけです。アンティゴネーといえばみんな大好きエディプスコンプレックスのオイディプスの娘ですね。反逆者として死んだ兄を国王の命に反して埋葬し、そのかどで処刑される…物語。

『ヴェールを被ったアンティゴネー』はそれを現代フランスを舞台に、アンティゴネーをムスリムの少女、そして国王を校長に置き換える。校長によってテロリストに仕立て上げられた亡き兄のために喪に服そうとする少女に対し、そのことを咎め、さらにはヴェールを被るといった宗教的標章の校内における顕示も禁止してしまう…

興味深いことにこの著者であるフランソワ・オストは作家ではなく法哲学者であるのだという。自身が講義する中で教室のムスリムの女子学生をみて翻案するアイデアを得たのだという。

さらに興味深いことには、この邦訳版には伊達先生が自身の講義の中で学生たちが作成した現代日本を舞台とした翻案の翻案まで掲載されている。注目すべきはやはりこの翻案の翻案。

 

原本はいわば、国王側に立つ国家/法とアンティゴネー側の個人ないし家族/普遍的道徳(家族の死への哀悼)の対立が主題となっている。

その翻案である『ヴェールを被ったアンティゴネー』においては校長側に宗教的マジョリティ(カトリック)/男性性/校則が、少女側に宗教的マイノリティ(ムスリム)/女性性/普遍的道徳(家族の死への哀悼)が対置され、その緊張関係が描かれる。

 

「ライシテ」という一見、普遍的な正しさをもっていそうな理念がその実践において往々にしてムスリムという少数派を排除される方向で機能してしまっている。そのような意図をもったひとたちによって利用され、結果的に社会の分断を深めているという現実が指摘されている。

多様性あえて横文字にしてダイバーシティは「認める」という動詞とセットで日本で、特に企業のCSRの文脈でみかけることが多いけれど、これも多数派ないし体制にとって都合の良いマイノリティのあり方を優遇、称揚することによってそこに当てはまらないマイノリティを排除する、社会からの分断を深めているところはないだろうか。いまの会社で経営者が途上国の若者について語るときも型にはめたロールモデルの教化モデルの文脈でばかり語ることを思い出さずにはいられない。

 

若干それましたが、翻案の翻案の話。

先生の授業で学生たちが作成したという現代日本における翻案の事例が2つ、講義の中で紹介されていた。

 

・議会に赤ちゃんを連れてきた女性議員と議長

・女性保育士の間で産休・育休に入る順番が決められている保育園でそれを無視して産休を申し出た女性保育士と園長

 

ここでおもしろいのが、学生がつくったという事例では極めてわかりやすくジェンダーの問題がクローズアップされている点。『ヴェールをー』ではもちろんジェンダーも意識的に配置された要素だろうけど、宗教や人種といったマイノリティの問題は現代日本でもあるだろうに…

極めつけは、ふつうに読めば産休に入る順番を設定するという肯定し難い制度を屁理屈をこねくり回して擁護する園長を、議論の中で懸命に擁護しようとする同じく講義を受けていた会社のおじさんたち… 論理性もさることながら、少なからぬ女性や若手が参加している場で「いや、組織としては存続のために…云々」などとよく言えたものだな、と。こんなことを抜かすおっさんたちがのさばっている組織に長くいたいと思うものだろうか。なぜおじさんたちは常にといっていいほど自分たちを権力の側に同一視したがるのか。おじさんたちもその多くが家に帰れば人の親であるだろうになぜ子育てする側に立てないのか。

 

そこでちょっとした提案なのだが、企業の管理職の昇格試験なりなんなりでこのようなポリコレ的複雑状況についての対話篇を読ませて勝手に意見を述べさせる。そこで、CSR的地雷を踏みにくような人間が上がっていかないようにすることにこのような人文知が活用できるんじゃないかなと。そんな人間が管理職として権力を握ればコンプライアンス上のリスクがあるわけですし、そいつがそのままいるということが現場の士気を下げることになるわけで。これはとても合理的な人文知活用のあり方なのだ…と書くとなんだかとても危険な思想のようですね。私は時代にキャッチアップできないおじさんたちも易々と排除することなく、その古い価値観の誤りを自覚・自省するくらいまではその場その場でちくちく刺し続けたいものです。