急がばしゃがめ

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませては目を回す。人文系だけど高分子材料でご飯食べてます。。SF読んだり、ボードゲームに遊ばれたり。一児の父。

『ユーロゲーム ― 現代欧州ボードゲームのデザイン・文化・プレイ』読書メモ

英語圏ボードゲーム研究の本が邦訳出版されました。

ありがとう、ニューゲームズオーダーさん。

www.newgamesorder.jp

 

今年は『ゲームメカニクス大全』も邦訳出版されたし、ボードゲームそのものの人気だけでなく、関連書籍も邦訳されるのは大変喜ばしいことですね。『ゲームメカニクス大全』然り、クニツィア先生の『ダイスゲーム百科』然り、これまで邦訳出ているボドゲ関連本はボードゲームそのものあるいはボードゲームデザインについて説明・解説する本が多かったですが、本作はボードゲームをプレイする人々であったりコミュニティに注目した社会学的アプローチの本となっています。もちろん、ボードゲーマーとしてはゲームメカニクスやデザインの本がでるだけでも有難き幸せですが、人文系でもある僕としてはこういう本も訳されるようになるとは、ほんとうにいい時代になったものだな、と。

honto.jp

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前置きが長くなりましたが、スチュワート・ウッズ著『ユーロゲーム ― 現代欧州ボードゲームのデザイン・文化・プレイ』の書評と言うには忍びない、読書メモのようなものをおいておきます。

 

メモ①”ボードゲーム

英語圏でもボードがなくともボードゲームというようだ。言われてみれば世界最大のボードゲームサイトもBGGことボードゲームギークであるし、何を今更と言われてしまうかもしれないが。

しかし日本でも同様にボードゲームとよびならわすのは英語圏の言い方に引っ張られているのか、それとも独立にボードゲームと(実態とは異なるにもかかわらず)総称する事態が生じたのか。前者なのかとは思うのだけれど、それが広まるにはその語感への共感のようなものは必要だろう。ボドゲでひっくるめる感覚が普遍的なものなのかあるいはという検討もおもしろそう。

一応テーブルゲームという矛盾のない言い方もあるにもかかわらず、ボードゲームの語の方がはるかに市民権を得ている現状というのはなかなかに不思議なものだな、と。

 

読書メモ②なぜ「ドイツがユーロゲームの中心たり得たか

ドイツでは第二次世界大戦以降、戦争が文化的タブーとなったため、(ウォーゲームが栄えたアメリカと異なり)多様なテーマ、メカニズムのゲームデザインが花開いたという通説。このような話はボドゲ界隈で耳にしたことがある方も少なくないだろう。それなりに説得力はあるのだけれども、本書ではドイツのデザイナーたちの言をいくつか引くことでそのアイデアを補強してはいるのだけれど、逆にそれ以上の論拠が提示されたり、批判的な吟味・検討というものがない。まあ立証すること自体が難しい類の問いではあるのだけれど。

そもそも戦争がタブー視されたのはドイツだけが特別ではなかったとか、実はドイツにおいても戦争をモチーフとした作品が人気を集めていないわけではなかったとか、あるいはユーロゲームとされているのは戦争の要素を巧妙にすり替えただけに過ぎずその本質は戦争と同根であるのだ(まあそのすり替えの努力や工夫こそが文化的には重要だという反論もあろうが)とか、もっと批判的な検証・検討を含んだ異論が挟まれる余地があるように思う。残念ながら私自身にはそれをなす知的な体力と語学力が欠如しているが…

 

読書メモ③布教と段階的発展説

英語圏においてもボードゲーマーは布教に熱心だという。

初心者を引き込むのにうってつけのボードゲームを「ゲートウェイ・ゲーム」とか言うのだという。これはいい表現なので今後積極的に使っていきたい。

しかし、ここで気になるのはこの「ゲートウェイ・ゲーム」という表現にも見られるようにボードゲーマーは要素があまり複雑ではなく、プレイ時間が短めのいわゆる軽めの

ゲームから始めて、ゲームシステムや駆け引きに徐々になれていくなかで要素がてんこ盛りでプレイ時間の長いいわゆる重ゲーへシフトしていくというボードゲーマーの段階的発展説がプリミティブに前提とされている印象を受けなくもない。日本ではというかしばしばTwitter日本語圏では定期的に盛り上がる類の話題だが、こういった単純な発展説にはわりと疑義が投げかけられることが多い(いきなり重ゲーから入って華麗に沼ったとか、そもそも重ゲーを高位、軽ゲーを低位とするような枠組みは不当だとうか)。英語圏ではこのような段階的発展説への懐疑論もそれなりにあるのだろうか。

 

読書メモ④リプレイアビリティと積みゲー

著者がBGG(世界最大のボードゲームサイト)で実施したアンケート調査で、ボードゲームの悦びとは何かを問うたところ、ほぼ100%がリプレイアビリティを挙げたという結果が示されている。

これに対して、「大量のゲームコレクションをため込むゲーム・ホビイストの習性を考えると、ここでのリプレイアビリティの強調は何か皮肉だ」と筆者は述べるわけだが、これは本当にその通りで積みゲーを抱える僕としても胸が痛いわけだけれども、非常に興味深い問いであるな、と。

ここでのリプレイアビリティというのは基本的にはチェスや将棋といった伝統的なアブストラクトゲームとの対比というのを強く意識されているようだ。ちなみに、本書の原語での出版が2012年(元になった博論は2011年)にということを考えると、2010年代中ば以降に隆盛し、一ジャンルとなったレガシーシステムボドゲコミュニティが経験したあとでもこのような高い率が記録されるかは気になるところ。

それはともかく、伝統ゲームとの比較を持ち出すまでもなく、近年のボードゲームはプレイヤーキャラクター固有能力だとか多数のゲーム目的や、ゲーム内の選択モジュール等リプレイ性を高めるデザインがこれでもかとばかりに実装されているが、実際にあまりにたくさんのボードゲームが日々発売され、話題となるために実際に1つのゲームを遊べる回数は減っているだろうし、遊ばずに積まれたままのゲームが増えていたり、積むのを避けんとして買い控えることも多いだろう。

この筆者の指摘には僕自身も痛いところを突かれたと反省する次第だが、それだけにしておくには惜しい。このボードゲーマーのパラノイア的習性あるいは本能、あるいはリプレイ性を称揚しながらも実際には1度プレイしたらいい方みたいな自己欺瞞はなんなのか。もちろん、繰り返し遊べるという可能性自体に価値があるのだという論の展開もできないこともないだろうが、この矛盾に真摯に向き合うべき時がそろそろ来ている気がする…が、たぶん今後も積みゲーは増えつづけるだろう。

 

読書メモ⑤ある種の規範主義

本書ではBGGを通じたアンケート調査という形式をとってはいるが、筆者自身がボードゲーマーのボードゲームに対するスタンスとしてある特定の立場ーークニツィア流に言うとこうだ。「ゲームをプレイする時、その目標は勝つことだが、重要なのは目標であって勝つことではない」ーーを支持する立場を隠していない。

この立場自体は私自身を含めたほとんどのボードゲーマーが同意するところだろうが、社会学的調査・研究者としてはこのような規範的な語りというのはいかがなものか。

やはりボードゲーム界には勝利至上主義者も散見されるし、逆に必ずしも勝利を志向しないプレイヤーも存在するかもしれない(前者は場の空気を悪くすることはあるかもしれないけれど、そのことを全員が目標とするという建前でプレイしている以上そのことを100%悪だとみなして全面的に咎めることはできないように思える。後者についてはボードゲームの成立を危ぶませるので非難ないし排除を正当化できそうな気もするが)。

筆者自身が社交の場としてのボードゲームというものを強調するのが本書の主旨であるにもかかわらず、特定の立場を称揚する一方でそうではない姿勢を排除することを肯定するようなスタンスというのは個人的には疑問が残る。

これは僕個人としての嗜好というか志向にもなるのだろうけれど、ボードゲームの社交的側面を強調するのであれば立場の異なるプレイヤーへも開いていく姿勢を追求できないものかとは思う。現実的にはクローズ・オープン会の厄介なプレイヤーの対応とかはそんな悠長なこと言っていられないというのもわかるが。