ボードゲームをテツガクする2-「人生はクソゲー」言説と「無知のヴェール」
さて、前回好評を博した…かどうかはさておきボードゲームの人文系論考企画の第二弾。
今回はボードゲーマーがしばしば冗談めかして言う「人生はクソゲー」という言説からはじめようと思う。
ここでは「人生」をある種のゲームとみなしている。なるほど人生をゲームとして捉えるというアイデアはなかなかに興味深い。
その上でこの「人生」というゲームにはゲームデザイン上の欠陥が多いということを揶揄しているわけだ。
端的に言って私はこの「人生はクソゲー」なる言説があまり好きではない。
1)決定論に抗う
それはある種の決定論であり、所与のものを所与のものとしてすべて受け入れてしまうのはボードゲーマーらしい態度とはいえないだろう。
ボードゲーマーというのはもちろんゲームデザイナーの意向を尊重して然るべきだが、それが気に入らない/バランスを欠くと思えばバリアントなりハウスルールを導入し、調整することができる。そしてゲームデザイナーの方も非公式であっても優れたバリアントがあれば公式に逆輸入ということも十分ありえる。このような可逆的なところこそが私がボードゲームを好ましいと思うところだ。
つまり、与えられたもの/いまあるものに対して批判的に吟味・検討した上で必要であれば是正する。
これはボードゲームを遊ぶ人、さらにはボードゲームデザインに関わる人であればなおのこと言わずもがなことだろう。
つまり、私が結局なにが言いたいかと言うと、ほかでもない自分自身の人生を「クソゲー」だとくさすよりもその”ゲーム”におけるゲームデザイン上の問題、課題を抽出し、それがどうすれば刺激的なものになるか、よりおもしろさを生み出す方へ舵を切れるかを考えればよいだけである。
(運命論/決定論を受け入れない限りは)われわれには自由意志があるのだから、それを発揮せずにしまいおくのはあまりに惜しいというもの(リソースを持て余すプレイは弱いですよね)。
2)無知のヴェール
さて、それではどのように「人生」というゲームを改変すべきか。
つまるところ、これは個人個人がその責任において「人生」のデザインを改変すればよいというだけの話ではない。
「人生はクソゲー」言説にはもう少し深みがあり、初期条件の不平等さや勝ち始めたら勝っているものが延々勝ち続けるだけのシステム、ビハインドしているものに対する救済措置が皆無/薄弱などあらゆるダメな要素が集まっているわけだが、それを個人の努力云々では変え難い部分が多々あるというもの。つまり、ゲームシステムとしての粗は重々理解しているにもかかわらずその変更を行う実際的な立場にない、つまり個人のレベルではいかんともし難いのだとしたら、それはやはり「クソゲー」と言いたい気持ちも理解できなくもない。
それでも、である。
であるならば、個人のレベルを超えたところで、すなわち社会レベルで動くことによってそのような”ゲームシステム”すなわち社会制度なり法なりを変革していけばいいだけのこと。つまり、「人生はクソゲー」というビジョンは人生を超多人数参加型で、例えば「富という共通かつ有限の資源を奪い合う」競争ゲームと捉えるから手の打ちようがなくなり打ちひしがれる羽目になるわけで。社会の構成員ひとりひとりの幸福度をプレーヤー全体の協同によっていかに増大するかという「協力ゲーム」として捉えれば近視眼的に非生産的な結論な陥ることはないだろう。
3)公正としてのボードゲーム
ボードゲームをデザインするように社会をデザインする、という発想はなかなか優れたアナロジーであるように思える。
ボードゲームにおいては手番順によってどうしても有利不利が生じてしまう。手番順をランダムに決めることがフェアかというと結局、これは運のいいものの有利を許容してしまうことになり、ゲームにおける運の要素を不用意に強めてしまうことになる。
なので、是正措置として、カタンのように初期陣地(2箇所)の選択を1→2→3→4→4→3→2→1というように後手番が必ずしも不利にならないように調整したり、1番手は5金、2番手は6金、3番手は7金…と手番が遅い人ほどスタート時の所持金が増額される(ナショナルエコノミーなど)だとかが制度設計に組み込まれている。
こういう調整が入っていないゲームは「クソゲー」と言われてもしょうがないだろう。
<よくある平等EQULITYと公正EQUITYのやつ>
左からEQUALITY:平等、EQUITY:公正、REALITY:現実
あるいは、モノポリーや人生ゲームのような古くからご家庭でよく遊ばれるボードゲームの代表格というのは、ゲームシステム上、誰かが勝ち始めると一方的に勝ち続ける展開となり、ビハインドしている者が逆転するということがなかなか難しい。これはゲームを致命的におもしろくなくさせるものであり、多くの人が大人になってもモノポリーや人生ゲームを繰り返し遊ぶということがないということが示している。その一方で優れた現代ボードゲームは出遅れたものにも機会を与える措置が用意されているものである。例えばクアックサルバ-のねずみのしっぽのような負けているひとほど予め鍋を前に進めて置ける措置とか。あるいはカタンのような交渉要素があるゲームではトップ目とは交渉に応じない、トップ以外のプレイヤー同士で積極的に交渉・交易していく、というのが基本的な戦術でもある(とはいえ、このような戦術はプレイ経験がない人には自発的にそのことに気づくことが難しいかもしれない。)。しかしまあ実社会というのは富めるものがますます富む(権力者と癒着することで)、強者同士で交易することで弱者に対してますます格差が広がる、弱者同士で結束すべき局面なので、強者によって分断統治されてしまう、といったことがままある。
ところで近年ボードゲーム以上に人気のあるゲームといえばソーシャルゲームいわゆるソシャゲである。これは従来のデジタルゲームやボードゲームと違い、プレイヤーは課金することで有利にゲームを進めることができ、積極的に現実世界の資本をゲームの世界に引き継いでいる点に特長がある。対して、ボードゲームは上記のように徹底して公正さを保つことを重視している。戦略ゲームの顔をしていないがら実際には運の要素が強すぎたり、一方的な展開になりがちなデザインのゲームはバランスが悪いとして高く評価されない。むしろゲームデザインの過程で「公正」なゲームとなるように調整されていく。
ここに私がボードゲームを見出す理由がある。
ジョン・ロールズは「公正としての正義」を論じるにあたって「無知のヴェール」というものを構想してみせわけだが、ボードゲーマーからしてみればそのような思考実験を持ち出さずしても、それがボードゲームのデザインとしておもしろいゲームと言えるのか、不用意な運の要素を廃したフェアなゲームかという観点で社会制度を眺めてみることでそのような社会デザインが適切か、多くの人が楽しめるシステムになっているかということが判断できるだろう。。
なんかだらだら書いてしまったけれど、ボードゲームをデザインするように社会制度をデザインする、この路線は悪くないアプローチであるように思う。
もう少しあれこれ考えたい。