「人狼知能」は何を解き明かすのか。
「人狼」をご存知だろうか。
押井守のアニメ映画…ではなく、しばしば「人狼ゲーム」とも呼ばれるアレである。
AIにチェス、囲碁、将棋といった完全情報ゲームをやらせる研究は人間のチャンピオンに勝利するなど一定の成果を挙げている。
しかし、それが不完全情報ゲームだったらどうだろうか…というのがこちらの記事。
こちらの記事の中に人狼の本質を端的に言い表したものがありました。
「人狼ゲームは推理と説得のゲームと呼ばれ、「コミュニケーション」以外の客観的情報、勝敗決定要因がほとんど存在しない、という性質がある。」
言われてみればそのとおりという感じなんですが、僕が人狼が苦手…あまり好きじゃない理由をああだこうだ考えた。
そもそも僕が人狼をおもしろいと思ったのは単純にゲーム性ももちろんあるのだけれど、参加者間の討議によって共同体の存続を懸けた意思決定を行うという点。すなわち人狼というものに民主主義を見出したというか、民主主義なりそれを支える精神を涵養するものとしての期待があったわけで。
そんなことで2年ほど月イチで人狼会の主催をするなどしていた。
しかしながら、その期待は人狼を遊べば遊ぶほどに裏切られていった。
つまるところ、こちらの記事にあるように人狼とは客観情報がない、となればエビデンスに基づく客観的な主張が困難でどうしても水掛け論に終始しがち。それはそれでそういうゲームとして愉しめばいいのだが、いかんせんあまりに攻撃的過ぎて少々僕には応えた。
さながら、いまや極右のレイシストが平然と人種差別や偏見にまみれたプロパガンダを垂れ流す。客観的な根拠に基づいた批判にさらされようものなら寧ろそっちこそが「フェイクニュース」だと悪びれもせず言ってのける。
相対主義が社会に浸透した結果として、「どこにも真実がないのであれば、自分にとって心地よいほうを信じる」とでも言うべき人々の増加というものがこのような極右主義者をのさばらせているのである。
もうお察しいただけただろうが、人狼というゲームは往々にしてこのように辛抱強く各人の主張を批判的に吟味・検討するということの精神的負荷や集団からの同調圧力や高圧的な振る舞いによる心理的負担に耐えかねて易きに流されてしまい、もう少し冷静な見極めができれば的確な判断ができたにもかかわらずそれをなし得ない、という場面を多々目にすることになる。
これを繰り返しまざまざと見せつけられることはなかなか辛い。たとえ自分が人狼側でそうやって勝利したとしてもなんだかすっきりしない。自分がこれまで養ってきたロジックとレトリックの能力というものはこうやって大衆を自らの利益に従うよう、そしてそうしていると悟られないように扇動するためのものだったのか、と。
これはひとえに僕の心の弱さというものなのかもしれないし、そうでないかもしれない。たかがゲームにマジになりすぎだという批判もあるかもしれない。
同じ不完全情報ゲームならば僕は俄然hanabiが好きだ。非言語コミュニケーションで妥当な推論を積み重ねていく、互いが互いを信頼しヒントを出し、出されたヒントに対し、その意図、メッセージを適切に対応することで互いを承認し合う。ごいたにもこれに通じるところがあると思う。
はてさて、記事に立ち返ればこの「人狼知能」の研究が人の心、人の意図を読み、説得する営みを解き明かすと期待されているとある。果たしてそのようなことが技術的にできるできない以前に論理的に可能なのか(人の心を解き明かすとはどういうことなのか、どういったことができれば解き明かしたことになるのか)。
僕としては人狼というゲームが大衆心理というか熟議民主主義の成立しえなさ、成熟の不可能性を証明とまではいかずとも、その困難さをいやというほどにみせつけれてくれたことは深刻なダメージであったわけで。それではこの人狼知能はいったいなにをもたらすというのか。そこに希望はあるのか。
愚にもつかないことをだらだら考えるというのは贅沢なものだなとしみじみ。
こうやってしばし書いてみるとなんだか久々に人狼をやりたくなってくるものだから不思議なものです。