急がばしゃがめ

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませては目を回す。人文系だけど高分子材料でご飯食べてます。。SF読んだり、ボードゲームに遊ばれたり。一児の父。

レイ・オルデンバーグ『サードプレイス』

レイ・オルデンバーグ『サードプレイス』を読みました。

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日本でもコミュニティ論とかでしばしば言及される本。

家庭、職場に次ぐ第3の居場所として、居酒屋や喫茶店などの「たまり場」におけるインフォーマルな交流の重要性を説いている。

反面、アメリカ社会では郊外の自動車移動を前提とし、近隣住民間交流を促していた雑多な要素を排除した(「浄化された」)住宅地ばかりとなっていて大変嘆かわしい…という論調。基本的にオルデンバーグの言うサードプレイスが住民に家庭や職場では得難い充実感や幸福感をもたらしただけでなく、地域社会の問題解決や政治参加を促す機能を有していたというのは私も大いに賛同するところだ。

(特に後者は直近読んだ宇野重規『民主主義とは何か』で若きトクヴィルが訪米した際に、地域住民自らが地域の問題解決に取り組んでいることに感銘を受けて『アメリカのデモクラシー』を書いたという話を思い出す)


とはいえ、いくら初版が1989年ということを差し引いたとしても、多分に懐古主義が過ぎるように思われる。オルデンバーグは無菌化された住宅地やさまざまな機能をためこもうとする住宅がなぜここまで広がるのかということに真摯に向き合っていない。ただただ失われたものの再来を願うというよりは時代に即した新たな交流の場を模索するアプローチが建設的だろう。

またオルデンバーグの古臭いジェンダー観も違和感を禁じ得ない。サードプレイスは男性だけ、女性だけのほうがよりサードプレイスらしいという主張、そして、中でも居酒屋のような男性中心のサードプレイスを理論的モデルに据えていることからも家庭のあれこれを女性なりなんなりに押し付けておっさんにとって都合のよい環境を取り戻せと言っているだけと非難されてもしょうがないのでは、と。

 

とはいえ、約30年前に著者が案じた郊外の「浄化された」住宅地で交流を絶たれた米国社会の行く末が、今日の大統領選における混乱と分断であるというのなら、その懸念と主張の妥当性がおよそ好ましくない形で立証されたと言える。
現代日本社会もショッピングモールやチェーン店に大いに依存し、インフォーマルな社交の場を排除しているという点で決して他人事ではない。

日本でもサードプレイス的なコミュニティをつくろうという取り組みが各地で行われているだろうが、サードプレイスはその本質が不特定多数の人が集まることにあるのだから、特にこのコロナ禍で大いに打撃を受けている。私が関わっているコミュニティスペースも遠からず締めることになりそうだ。

それでは現代的、コロナ禍中のサードプレイスはどのようなものがありうるやコロナ後のコミュニティ論はどうあるのか。