急がばしゃがめ

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませては目を回す。人文系だけど高分子材料でご飯食べてます。。SF読んだり、ボードゲームに遊ばれたり。一児の父。

鬼滅の刃 無限列車編 煉獄さんの高潔さとその限界、炭治郎が断ち切ったもの

世のブームに乗じて鬼滅の刃の劇場版、無限列車編をみてきました。

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ちなみに僕の鬼滅履修状況はTVアニメを通してみたくらいで原作は未読です。

数ある深夜アニメの一枠くらいで流しみていた鬼滅ですが、あの19話の怒涛の戦闘演出、作画に感服し、俄然注目するようになったものの、よもやここまでのヒット作になるとは…子供を遊ばせに行った先の公園でキッズたちが鬼滅グッズを身に着けて作中の技を繰り出し合っている様をみるにつけてこの人気はホンモノだと思う次第。

 

さて、本題に入りましょう。

無限列車編たいへんよかった。

(以下、ネタバレを含みます。ご容赦ください)

 

 

なにがいいってやはり煉獄さんのカッコよさ、具体的には高潔さである。

煉獄さんは鬼殺隊最強戦力である「柱」として、最初に掘り下げがなされる人物である(と同時に最初の殉職者でもある)。そこには煉獄さんというキャラクター以上に、作中における柱の存在感、つまりそれは戦闘力だけではなく、人格的にも一等優れた人物であるということが示される。とみに人格的な部分。

劇場版の序盤における下弦の一の鬼にみせられる幻夢というか回想シーンでの一コマがとりわけ印象的。

煉獄さんが柱になった当初の出来事として、彼がかつて柱でもあったが、その後ある日を境に突然やる気を無くしてしまった父親にその報告をしにいき、無下にされ部屋を辞す。すると、弟・千寿郎が駆け寄り、不安げに煉獄さんに聞くのである。「父上は喜んでくれましたか?」

そう問うことがそうではないことを予期している悲しい質問なのだが、それに対し、煉獄さんは「正直に言おう、父上は喜んでくれなかった。しかし、そんなことで俺の情熱はなくならない!」と返すのである。

ちょろい僕あたりはこのシーンで早くもウルっときてしまっていたわけです。

これは煉獄さんが単にめちゃくちゃ強メンタルであることをあらわしているだけではなく、彼が高い倫理性も有していることを示している。つまり、煉獄さんは自らと年の離れた弟に対し、彼を守るべき対象として彼が傷つかないように父が喜んでくれたという嘘をつくこともできたわけで。しかしながら、煉獄さんは正直に事実を伝えるのである。そこには子供を庇護すべき存在、いうなれば格下の相手とみなすのではなく、対等な一個人として真摯に向き合おうとする姿勢があらわれている。

ともすれば、家父長制を称揚しているとも批判されることもある鬼滅ですが、そのような女子供を成人男性に対して、格下の存在として位置づけて対等に扱わないような思想に与しているという理解は、このような煉獄さんの言動からも明らかに棄却されるわけです。

 

しかしながら、そんな煉獄さんはその名言を放った1時間半後くらいには上弦の参・猗窩座に破れ死んでいるわけで。なぜ煉獄さんは敗死しなければならなかったのか。そして、なぜ炭治郎は生き残り、そして最終的にはラスボスであるところの鬼舞辻無惨を倒すことができたのか。この二人を対比させてみる。共通点としてはいずれも「高潔な人物」であるという点。

煉獄さんは対峙した猗窩座にその実力を認められ再三再四鬼になるよう勧められるが、そのような誘いにまったく動じず、相手にしない。かたや炭治郎も、猗窩座戦の前段である下弦の一・魘夢との戦いにおいて、血鬼術による幻術を破るために自害が必要と悟るやそれを実行に移す気力。繰り返し催眠をかけられようとも秒で自害し、覚醒するという強メンタルぶり。また、那田蜘蛛山編における下弦の五・累との戦闘における「取り消さない!俺の言ったことは間違っていない!」という言葉にも彼の倫理的信念がよくあらわれている。

とはいえ、それぞれの立ち位置には異なる点もある。

煉獄さんが死ぬ間際の回想で彼の原点が母親から与えられた「強者に生まれたからには弱者を助ける義務がある」という言葉であることが明かされる。つまり、煉獄さんは生まれながらの強者にしてノブレス・オブリージュ的価値観がその根底にあることがわかる。それは「母上、俺はうまくやれただろうか」という最期の言葉でも強者の義務によって自己を規定していたことがわかる。言うなれば思想的マッチョイズムである。

 

対して、炭治郎はというと、物語の冒頭において、為す術もなく鬼によって自らの家族を殺され、鬼と化した妹を殺さんとする富岡さんに対しても負けることを前提に抗うという姿勢からもわかるように「弱者」として自己を認識していることがうかがえる。それは煉獄さんの死に際して、「悔しいなぁ。(略)すごい人はもっとずっと先の所で戦っているのに俺はまだそこに行けない。こんな所でつまずいているような俺は煉獄さんみたいになれるのあかなぁ…」と弱音をはいており、やはり自らを弱者と規定していることがうかがえる。弱者でありながら、妹を助けたいという願望を軸に他の人々を助けたいという思いも含めて、その目的達成のために力をつけるべきだと認識し、鍛錬を積み、実際に強くなっていく。ある意味で力それ自体が刀を振るう、鬼と戦う理由になっている煉獄さんに対し、あくまでも力は目的達成の手段でしかないのが炭治郎なのである。 

つまるところ、マッチョな思想でもってして強者の責務としての倫理を実践するものとしての柱・煉獄さんはさらなる強者である上弦の鬼との実力差を埋めることができず、その前に敗死するしかないわけですが、そのような力の論理に回収されない炭治郎は、その窮地を生き延びることができ、最終的には作中最強の実力者である鬼舞辻無惨をも倒すことができるのである、と。

煉獄さんは弟・千寿郎を子供ではなく、一個人として対等に扱っているという点ではリベラルな面もあるのだけれども、死に際に炭治郎に「君の妹を鬼殺隊の一員として認める」というのは「命をかけて」隊の面々や乗客を守るために戦ったからだと理由づけており、力を軸にした評価に終始してしまっている。

ある意味で煉獄さんというのは旧来の思想的マッチョイズムを背負った人物である以上、圧倒的な力を示しつつも、それを上回るさらなる力の前に敗れ去るしかない。強者に対してはさらにその強者が常にあり続け、力や強さに依って立つ以上そこから逃れることはできない。これはジャンプ的なバトル漫画におけるパワーインフレの問題にも通底するようにも思える。

しかしながら、炭治郎が示す倫理性というのは自らが弱者であると認めることからはじめる倫理であり、これこそが本作をそのキャッチコピーである「日本一慈(やさ)しい鬼退治」と言わしめているものなのではないだろうか。

つまり、炭治郎がこの映画において断ち切ったのは無限列車と一体化した魘夢の首だけでなく、脅迫的に力を求め続けるパワーインフレの連鎖、思想的マッチョイズムの不毛さという”無限”だったのではないだろうか。

(最後にこれを言いたいがためにここまで書きました。お付き合いありがとうございました)

※それにしても劇中における無限列車の無限の意味ってなんなんでしょう。車体番号が無限として設定されているということのようですが、劇中の意味づけ、説明が特にないようですが…単に夢幻にかけているだけの話ではないとは思うのですが…ということから無理矢理このような形に落とし込みました)