急がばしゃがめ

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませては目を回す。人文系だけど高分子材料でご飯食べてます。。SF読んだり、ボードゲームに遊ばれたり。一児の父。

きかんしゃトーマスの2D化におもう

きかんしゃトーマスについて書いて半年。

我が子は変わらずトーマスを熱心にみています。

 僕もなんだかんだでみています。

 

meirin213.hatenablog.com

 

さて、そんなみんな大好ききかんしゃトーマスですが、公式から驚くべきアナウンスが…

なんと次期(2021年秋)の新シリーズ(25期)からはデザインを一新し、以下のような2Dアニメに切り替わるのだという。

f:id:meirin213:20201015215856p:plain

 

そもそも、僕も子供ができるまではもう10年以上前からトーマスがあの馴染み深いミニチュア撮影から3DCGに変わっていたことさえ知らなかったのですが…

リアル路線から一転して切り替えてきたわけですね。

 

Twitter界隈でのこのトピックへの反響をみていると、年季の入ってそうなトーマスファン(!?)がわりと暴れていておやおや…という気持ちになりました。

 

率直に言って、僕もこの2D化はデザイン的にどうなんだと思いますが、版元の判断(そして、それは基本的にこのトーマスというコンテンツを継続していくための戦略に基づくものなのでしょうが)ということであればそれは尊重すべきというかそれを往年のファンがとやかく言ってもねえという感じですね。

僕としてはトーマスに「大きなお友だち」がいるということ自体が新鮮な驚きというか発見だったんですが、トーマスというかキッズ向けコンテンツというのは常に「今の」キッズに向けて新しくつくられているものですから、それが合わないと感じたらそれは自分がそのコンテンツを卒業するときだ、というだけのことだとおもうんですが、どうしてオタクというものはことごとく「こうあるべき」などという主張をそこら中に振りかざさずにはいられないのか…未だに15年前のドラえもんの声優交代を叩いている人がいるとかいないとかいう与太話もありますが。。。

とはいえかくいう僕も自分の熱の入れ込みのあるコンテンツがこのような血迷った暴挙に出た時に冷静に受け入れるなりおとなしく見限るなりができるのか…

 

佐々木中の『切り取れ、あの祈る手を』では宗教改革で知られるルターが実際に聖書を読んだ時にカトリック教会の教えと聖書に実際に書かれている内容とのギャップに「狂っているのは世界(教会)なのか、それともこの私なのか」と苦悩した(そしてそれこそが<革命>の源泉であるのだ)と書いているのを思い出しました。

 

つまるところ、純然たる狂気/暴挙と正答な革命なるものを客観的な基準によって分別することはできるのか、と。まあそういう線引にあまり意味はないとも言えると思いますが。

まあでも僕としてはこのトーマス版元(マテル社)もなにもトーマスというコンテンツを終わらせるためにこのような手を打っているわけではなく、トーマスというコンテンツを延命ないしジリ貧から脱するために大胆な路線転換を図っているのでしょう。

絵柄的に対象年齢をさらに下げていく方向だと思います。ある意味鉄道としてのリアルさを放棄することはそこにこだわるようなめんどくさい”大友”を振り落としてよりコアなターゲットであるキッズへフォーカスしていくという点では妥当なアプローチな気もします。

 

トーマスってそもそも3DCG化した当初はミニチュア/人形劇では制作コストが嵩むことや一部原作絵本の内容を模型では再現し難いという課題から3DCGにシフトしたのだとされています。

確かにアニメーションにおいては3DCGはひとたびモデルを作り込んでしまえばあとはそれらを動かすだけなので比較的少ない手間で制作ができる、という利点があるわけで。

3DCGか当初は一定の成功を収めたのでしょうが、このような長期シリーズにありがちな問題としてどうしてもマンネリ化する問題がある。そういうわけかなんなのかはわかりませんが、最近のトーマスはめちゃくちゃキャラが多い。1つの島にこれだけの機関車、それも特殊車両がいるのかというソドー島メンバーもそうだけど、直近のシリーズでやっている各国をめぐるシリーズでは中国、インド、オーストラリア、ブラジルをトーマスが旅しながら現地の機関車たちと交流するというのをやっていて現地の機関車が数車両あって、そこに風景とか人物とか、要するに使いまわしできない要素がガッツリのかってきてるわけで。これはアニメーション制作の負荷が高いだろうな。こんなにポンポンだしてどうするのというのは僕ですら感じていたくらい。

自分で自分の首を締めているようにもみえるわけですが、結局はグローバル資本主義のなかでコンテンツが生き残るための生存戦略というか、差異化しつづけるしかないということなんでしょう。

因果なものです。

 

それにしてもこの2D化の話をみて最初に思ったのはプラレールとか模型系のおもちゃはどうすんのかな、と。リアル路線の3DCGとは馴染みよかったでしょうが、2Dキャラのプラレールとかなかなか模型かしにくそうだしそもそも模型の購買意欲が上がらなそうな…ドイツとかは鉄道模型文化あると聞いたことありますが、トーマス本場の英国や米国ではあまり鉄道模型系おもちゃの市場規模はたいしたことないのか?あくまでも映像コンテンツとして戦っていく(そもそもそうして戦ってきた?)ということなのか。どうする?タカラトミー

 

ウイングスパン/追加プロモが出る説/ボドゲ界のブラタモリ説

最近ウイングスパンというボードゲームにハマっています。

各自の自然保護区に野鳥を囲っていくというコンセプトのボードゲームで実在する豊富な野鳥の種(基本では北米に棲息する170種、拡張第一弾では欧州でもう100種くらいが追加)とその生態を的確にゲームシステムに組み込んだところが高く評価され、ボードゲーム界で格別に権威があるとされるドイツ年間ゲーム大賞(のエキスパート)とドイツ年間ゲーム大賞のダブル受賞を2019年に果たしています。

カッコいい・カワイイ鳥たちをゲットし、その鳥たちを駆使・連携させてコンボを組み上げる喜びたるや…

 

というわけでTwitterで小出しにしているウイングスパン情報をこちらに書き残しておきます。

 

1.公式からの拡張および追加プロモ

ウイングスパンの欧州に次ぐ第二弾拡張のオセアニアの詳細情報がStonemaier社から公開されています。話題になってますが、楽しみですね!

んで、この情報が公開されているのはSM社公式HPなんですが、そこに加えてFacebook上にあるウイングスパンのSM社公式?ファングループページでも公開されているようです。DAY1,DAY2と情報が小出しにされているのはこういうSNSでの情報公開を念頭に置いていたのかと合点がいった次第。

それでこちらのFBグループに参加して(参加リクエストしたら秒で承認されたので自動承認される模様)ちょいちょい覗いています。

前置きが長くなりましたが、そこでこんなSM社公式の投稿がありました。


f:id:meirin213:20201012005755j:image

ここからわかることは…

①ウイングスパンはオセアニア以降であと4つ拡張を出す予定

 (七大陸を制覇するつもり)

②正規の拡張とは別に、追加のプロモーションカードのパックのリリースの計画がある。

③追加プロモの参考にアンケート実施中。

 

①についてはどこかですでに公言されているのかもしれませんが僕が公式のコメントとして確認したのは初めて。七大陸完走してもらいたいものです。

が、実際にそうなったら一体カード枚数は累計でどんなことになってしまうのか。すでに欧州拡張の段階ですでにカットするのめっちゃ大変なんですけど。。。

そして、七大陸とは…北米、南米、ユーラシア、アフリカ、オセアニア、南極、ん?あとひとつはまさかアトランティス????とか一瞬思いましたが、ふつうに考えてユーラシアをヨーロッパとアジアに分けるってことですね。欧州拡張はもう出てるわけですし。

オンラインでウイングスパンを遊びながら仲間内でオセアニアに次ぐ拡張はどこか…とか話していたのですが…第2弾のオセアニア拡張が2019年末のオーストラリアの大規模な森林火災の被害を受けて、その支援に充てるため、ということで第二弾はオセアニアになったという触れ込みだったと思いますので、次は南米かなと僕は予想しています。鳥好きの方に言わせると南米はわりかし北米と棲息種がだぶっているということなんですが、そうはいってもアマゾンがありますからアマゾンの固有種とか華やかなものが多数あろうかと。そしてその固有種こそ度重なる森林火災で絶滅の危機にあるのだとしたら、やはり南米なのかな、と。

②に関しては朗報ですね。候補としてはすでに絶命した種や絶滅危惧種、空想上の羽の生えた生物などが挙がっています。

んで、③につながるわけですが、現状は絶滅した種が優勢でした。僕としてはそもそものウイングスパンのコンセプトとして売上から鳥類の保護に役立てるというのがあるので、そこに忠実にいくなら絶滅危惧種なのかなと思っていたのですが、そしたらそしたで実際に拡張出すときにネタかぶりというかネタを削ってしまうことになってしまうという心配も。だったら素直に絶滅種でもいいのかなと。

 

2.鳴き声アプリ

これもFBのファングループで知ったのですが、なんとウイングスパン専用アプリとして、鳥カードをスキャンすると、その鳥の鳴き声が再生されるというアプリがリリースされているのです。


f:id:meirin213:20201012005824j:image
f:id:meirin213:20201012005835j:image

残念ながら現状アンドロイドのみ。

多言語にも対応していて、これでウイングスパンをプレイする楽しみが増えるね!やったねたえちゃん!と思っていたら悲しいかな日本語には対応していない模様。

悔しいので別のスマホで英語版鳥カードを表示させてアプリダウンロード済のスマホでスキャンして鳴かせるなどしました。。それにしても古くはプラモ狂四郎、僕の世代では遊戯王みたいにボードゲームをAR(拡張現実)的に楽しむ時代というのはそう遠くない未来かもしれないですね。すでにそういうAR機能を実装したボドゲがいくつか出ていたとは思いますが。

 

3.オンラインウイングスパンのすすめ

そしてこれがいちばん言いたいことになりますが、最近リリースされたSteam(PC上のデジタルゲームプラットフォーム)版のウイングスパンをちょくちょくやっています。よもやウイングスパンをPCで、オンラインで遊べるようになろうとは。


f:id:meirin213:20201012005909j:image

東京時代のボドゲ仲間、かつて大阪で一緒に遊んでいたけれどいまは北海道に行ってしまった友人、そして、鳥好きが高じて他のボドゲはしないけどウイングスパンだけはやるという鳥好きの人などとオンラインウイングスパンをやっています。

僕はオンラインでボドゲするときは基本的にフリーのマッチングというよりも、知り合いとラインでグループ通話をしながら遊んでいます。なんだかんだ言ってボドゲの楽しみはゲーム中のおしゃべり、コミュニケーションのウェイトってまあまああるよなと。

それで、最近よく一緒に遊んでもらっている鳥好きの方が本物の鳥好きの方で「北米の鳥はあまり詳しくない」と言いながらも、各鳥の生態についてあれやこれやと教えてくれるわけです。そうしてもらうことによって、各鳥に与えられた能力や各種ゲームシステムが鳥たちの生態や性質にマッチしているかを知ることになり…噛めば噛むほどじゃないですが、知れば知るほどウイングスパンの完成度の高さがわかる。この学術的知見を”遊び”の中に巧妙に組み込んでいき、それを"遊び"ながら解きほぐしていくことでその世界の見え方が変わる、見えていなかった深さが現出してきて、そこに”おもしろさ”が生じるというのは…そう、ブラタモリ的なおもしろさだなと。ということでこれからウイングスパンをインストする時には積極的に「ボードゲーム界のブラタモリ」と呼称していこうと思います。もっとましな比喩を思いつくか心が折れるかするまではこれでいきたいと思います。

ところで、生態学も金にならない学問、そして(目に見える、企業が喜ぶ)成果が出にくい学問(昔、講義を受けていた科学史の先生は「もともとはシロアリの生態を研究していたけれど、3年かけてようやく論文1本書けるかどうかなので、論文数で業績評価される今の制度ではとても食べていけないので科学史に鞍替えした」的なことを言っていたのを思い出す)でしょうが、人文科学もその点では負けず劣らずではなかろうかと。人文科学でもこういう人文知を組み込んだボドゲができないものか…単にトリビアとかフレーバーとして拝借というよりはゲームシステムとマッチさせる、ここがとても難しいんでしょうが。改めてウイングスパンはすごい。おそらくですが、この成功にはデザイナーのElisabethが鳥類研究者(だったと思う)であることに加えて、おそらく極めて商売上手なSM社の入れ知恵(決して悪い意味ではなくて)があってのものではないかと邪推しています。

 

4.Steam版ウイングスパンの特徴

これまでに遊んだ中で気づいたこと。

 

<メリット>

・CPUを追加して適度に人数を調整できる

・得点計算が速くて確実

・プレイ中に自分の現状の得点が一見してわかる。

・プレイ中にラウンド終了時ボーナスの競合状況が一見してわかる

・大量のカードをカットしなくてよい

・プレイ中に鳥カードをクリックすると鳴き声がする

・右クリックするとトリビアが表示される(手札のみ?)

 

<デメリット>

・CPUが弱すぎる。イージーとノーマルの2種があるけれど、ノーマルがふつうに弱い。打ち筋がまったく謎。

とはいえ調子いい時は80点くらい取るので時々迷走してしまうとCPUにすら負ける。その時の恥辱たるや。あと、わりと利他的行動(たとえば全プレイヤーが餌取れるとか鳥カードひけるみたいなのを躊躇なくやってくれるのでとりあえずCPU入れとくと総得点が伸びやすいという麺はがある。)

・誤植 *なぜかプレイ時能力をもつ鳥カードに「群れ」効果の表示がある

・処理落ちがぼちぼちある。特に自身がオンラインゲームのホストになるとなりやすい?バードパワー(桃色能力)発動に関する通知が消えなくなる不具合が頻発してエサ箱からめっちゃ取りにくくなるやつなんとかしてほしい。

・(デジタル化したからといって特段プレイ時間が短くなる感じはしない)

・拡張未追加。基本のみ。

・ゲームバランス調整のためのバリアントをいれようがない。

 

兎にも角にもオンラインで遊べることにそれ以上のメリットがないわけですが。

早々にバグとかが是正されることを望みます。

 

それにしてもいいゲームです。だいたいオンラインで週に2~3回は遊んでます。Steam版買ったという人はぜひ一緒にやりましょう。買ってない人もこの機に買って一緒にやりましょう。

「人狼知能」は何を解き明かすのか。

人狼」をご存知だろうか。

押井守のアニメ映画…ではなく、しばしば「人狼ゲーム」とも呼ばれるアレである。

 

AIにチェス、囲碁、将棋といった完全情報ゲームをやらせる研究は人間のチャンピオンに勝利するなど一定の成果を挙げている。

しかし、それが不完全情報ゲームだったらどうだろうか…というのがこちらの記事。

rad-it21.com

 

こちらの記事の中に人狼の本質を端的に言い表したものがありました。

 

人狼ゲームは推理と説得のゲームと呼ばれ、「コミュニケーション」以外の客観的情報、勝敗決定要因がほとんど存在しない、という性質がある。」

 

言われてみればそのとおりという感じなんですが、僕が人狼が苦手…あまり好きじゃない理由をああだこうだ考えた。

そもそも僕が人狼をおもしろいと思ったのは単純にゲーム性ももちろんあるのだけれど、参加者間の討議によって共同体の存続を懸けた意思決定を行うという点。すなわち人狼というものに民主主義を見出したというか、民主主義なりそれを支える精神を涵養するものとしての期待があったわけで。

そんなことで2年ほど月イチで人狼会の主催をするなどしていた。

しかしながら、その期待は人狼を遊べば遊ぶほどに裏切られていった。

 

つまるところ、こちらの記事にあるように人狼とは客観情報がない、となればエビデンスに基づく客観的な主張が困難でどうしても水掛け論に終始しがち。それはそれでそういうゲームとして愉しめばいいのだが、いかんせんあまりに攻撃的過ぎて少々僕には応えた。

さながら、いまや極右のレイシストが平然と人種差別や偏見にまみれたプロパガンダを垂れ流す。客観的な根拠に基づいた批判にさらされようものなら寧ろそっちこそが「フェイクニュース」だと悪びれもせず言ってのける。

相対主義が社会に浸透した結果として、「どこにも真実がないのであれば、自分にとって心地よいほうを信じる」とでも言うべき人々の増加というものがこのような極右主義者をのさばらせているのである。

もうお察しいただけただろうが、人狼というゲームは往々にしてこのように辛抱強く各人の主張を批判的に吟味・検討するということの精神的負荷や集団からの同調圧力や高圧的な振る舞いによる心理的負担に耐えかねて易きに流されてしまい、もう少し冷静な見極めができれば的確な判断ができたにもかかわらずそれをなし得ない、という場面を多々目にすることになる。

これを繰り返しまざまざと見せつけられることはなかなか辛い。たとえ自分が人狼側でそうやって勝利したとしてもなんだかすっきりしない。自分がこれまで養ってきたロジックとレトリックの能力というものはこうやって大衆を自らの利益に従うよう、そしてそうしていると悟られないように扇動するためのものだったのか、と。

 

これはひとえに僕の心の弱さというものなのかもしれないし、そうでないかもしれない。たかがゲームにマジになりすぎだという批判もあるかもしれない。

 

同じ不完全情報ゲームならば僕は俄然hanabiが好きだ。非言語コミュニケーションで妥当な推論を積み重ねていく、互いが互いを信頼しヒントを出し、出されたヒントに対し、その意図、メッセージを適切に対応することで互いを承認し合う。ごいたにもこれに通じるところがあると思う。

 

はてさて、記事に立ち返ればこの「人狼知能」の研究が人の心、人の意図を読み、説得する営みを解き明かすと期待されているとある。果たしてそのようなことが技術的にできるできない以前に論理的に可能なのか(人の心を解き明かすとはどういうことなのか、どういったことができれば解き明かしたことになるのか)。

僕としては人狼というゲームが大衆心理というか熟議民主主義の成立しえなさ、成熟の不可能性を証明とまではいかずとも、その困難さをいやというほどにみせつけれてくれたことは深刻なダメージであったわけで。それではこの人狼知能はいったいなにをもたらすというのか。そこに希望はあるのか。

愚にもつかないことをだらだら考えるというのは贅沢なものだなとしみじみ。

こうやってしばし書いてみるとなんだか久々に人狼をやりたくなってくるものだから不思議なものです。

 

 

 

 

ボードゲームをテツガクする2-「人生はクソゲー」言説と「無知のヴェール」

 さて、前回好評を博した…かどうかはさておきボードゲームの人文系論考企画の第二弾。

meirin213.hatenablog.com

 

今回はボードゲーマーがしばしば冗談めかして言う「人生はクソゲー」という言説からはじめようと思う。

ここでは「人生」をある種のゲームとみなしている。なるほど人生をゲームとして捉えるというアイデアはなかなかに興味深い。

その上でこの「人生」というゲームにはゲームデザイン上の欠陥が多いということを揶揄しているわけだ。

 

端的に言って私はこの「人生はクソゲー」なる言説があまり好きではない。

 

1)決定論に抗う

それはある種の決定論であり、所与のものを所与のものとしてすべて受け入れてしまうのはボードゲーマーらしい態度とはいえないだろう。

ボードゲーマーというのはもちろんゲームデザイナーの意向を尊重して然るべきだが、それが気に入らない/バランスを欠くと思えばバリアントなりハウスルールを導入し、調整することができる。そしてゲームデザイナーの方も非公式であっても優れたバリアントがあれば公式に逆輸入ということも十分ありえる。このような可逆的なところこそが私がボードゲームを好ましいと思うところだ。

つまり、与えられたもの/いまあるものに対して批判的に吟味・検討した上で必要であれば是正する。

これはボードゲームを遊ぶ人、さらにはボードゲームデザインに関わる人であればなおのこと言わずもがなことだろう。

つまり、私が結局なにが言いたいかと言うと、ほかでもない自分自身の人生を「クソゲー」だとくさすよりもその”ゲーム”におけるゲームデザイン上の問題、課題を抽出し、それがどうすれば刺激的なものになるか、よりおもしろさを生み出す方へ舵を切れるかを考えればよいだけである。

(運命論/決定論を受け入れない限りは)われわれには自由意志があるのだから、それを発揮せずにしまいおくのはあまりに惜しいというもの(リソースを持て余すプレイは弱いですよね)。

 

2)無知のヴェール

さて、それではどのように「人生」というゲームを改変すべきか。

つまるところ、これは個人個人がその責任において「人生」のデザインを改変すればよいというだけの話ではない。

「人生はクソゲー」言説にはもう少し深みがあり、初期条件の不平等さや勝ち始めたら勝っているものが延々勝ち続けるだけのシステム、ビハインドしているものに対する救済措置が皆無/薄弱などあらゆるダメな要素が集まっているわけだが、それを個人の努力云々では変え難い部分が多々あるというもの。つまり、ゲームシステムとしての粗は重々理解しているにもかかわらずその変更を行う実際的な立場にない、つまり個人のレベルではいかんともし難いのだとしたら、それはやはり「クソゲー」と言いたい気持ちも理解できなくもない。

それでも、である。

であるならば、個人のレベルを超えたところで、すなわち社会レベルで動くことによってそのような”ゲームシステム”すなわち社会制度なり法なりを変革していけばいいだけのこと。つまり、「人生はクソゲー」というビジョンは人生を超多人数参加型で、例えば「富という共通かつ有限の資源を奪い合う」競争ゲームと捉えるから手の打ちようがなくなり打ちひしがれる羽目になるわけで。社会の構成員ひとりひとりの幸福度をプレーヤー全体の協同によっていかに増大するかという「協力ゲーム」として捉えれば近視眼的に非生産的な結論な陥ることはないだろう。

 

3)公正としてのボードゲーム

ボードゲームをデザインするように社会をデザインする、という発想はなかなか優れたアナロジーであるように思える。

 ボードゲームにおいては手番順によってどうしても有利不利が生じてしまう。手番順をランダムに決めることがフェアかというと結局、これは運のいいものの有利を許容してしまうことになり、ゲームにおける運の要素を不用意に強めてしまうことになる。

なので、是正措置として、カタンのように初期陣地(2箇所)の選択を1→2→3→4→4→3→2→1というように後手番が必ずしも不利にならないように調整したり、1番手は5金、2番手は6金、3番手は7金…と手番が遅い人ほどスタート時の所持金が増額される(ナショナルエコノミーなど)だとかが制度設計に組み込まれている。

こういう調整が入っていないゲームは「クソゲー」と言われてもしょうがないだろう。

 

<よくある平等EQULITYと公正EQUITYのやつ>

f:id:meirin213:20201006004726p:plain


左からEQUALITY:平等、EQUITY:公正、REALITY:現実

 

あるいは、モノポリーや人生ゲームのような古くからご家庭でよく遊ばれるボードゲームの代表格というのは、ゲームシステム上、誰かが勝ち始めると一方的に勝ち続ける展開となり、ビハインドしている者が逆転するということがなかなか難しい。これはゲームを致命的におもしろくなくさせるものであり、多くの人が大人になってもモノポリーや人生ゲームを繰り返し遊ぶということがないということが示している。その一方で優れた現代ボードゲームは出遅れたものにも機会を与える措置が用意されているものである。例えばクアックサルバ-のねずみのしっぽのような負けているひとほど予め鍋を前に進めて置ける措置とか。あるいはカタンのような交渉要素があるゲームではトップ目とは交渉に応じない、トップ以外のプレイヤー同士で積極的に交渉・交易していく、というのが基本的な戦術でもある(とはいえ、このような戦術はプレイ経験がない人には自発的にそのことに気づくことが難しいかもしれない。)。しかしまあ実社会というのは富めるものがますます富む(権力者と癒着することで)、強者同士で交易することで弱者に対してますます格差が広がる、弱者同士で結束すべき局面なので、強者によって分断統治されてしまう、といったことがままある。

 

ところで近年ボードゲーム以上に人気のあるゲームといえばソーシャルゲームいわゆるソシャゲである。これは従来のデジタルゲームボードゲームと違い、プレイヤーは課金することで有利にゲームを進めることができ、積極的に現実世界の資本をゲームの世界に引き継いでいる点に特長がある。対して、ボードゲームは上記のように徹底して公正さを保つことを重視している。戦略ゲームの顔をしていないがら実際には運の要素が強すぎたり、一方的な展開になりがちなデザインのゲームはバランスが悪いとして高く評価されない。むしろゲームデザインの過程で「公正」なゲームとなるように調整されていく。

ここに私がボードゲームを見出す理由がある。

ジョン・ロールズは「公正としての正義」を論じるにあたって「無知のヴェール」というものを構想してみせわけだが、ボードゲーマーからしてみればそのような思考実験を持ち出さずしても、それがボードゲームのデザインとしておもしろいゲームと言えるのか、不用意な運の要素を廃したフェアなゲームかという観点で社会制度を眺めてみることでそのような社会デザインが適切か、多くの人が楽しめるシステムになっているかということが判断できるだろう。。

 

なんかだらだら書いてしまったけれど、ボードゲームをデザインするように社会制度をデザインする、この路線は悪くないアプローチであるように思う。

もう少しあれこれ考えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プラネタリウムに行った話/社会の科学化と科学の社会化

近所の科学館(伊丹市立こども文化科学館)へ行ってプラネタリウムをみた。


f:id:meirin213:20201004233640j:image

プラネタリウムへ行くのは何年ぶり、最後に行ったのは中学生くらいだったような気がするので二十年近く前ということになろうか。

そのときにあまりこういうのに関心がなさそうな父がプラネタリウムにいやにポジティブだったので(父が理系だったというのは後に知った)なぜかと聞いたら、適度な暗さと穏やかなBGMで練るのに最適、という趣旨の答えが返ってきた。子供心にお金を払ってまでプログラムをみずに寝るなんて…と思ったことを今の今まで覚えているくらいだったんですが、自分が子供を連れてプラネタリウムに来る側になってみるとかつての父の言にしみじみ共感できるようになったなと。

 

ちょうど伊丹の科学館は30周年ということでロビー近くで開館当初からの全上映プログラムのポスターの展示があった。

それをだらだらみていて思ったのは開館当初(1990年)からざっくり90年代くらいは宇宙旅行・探検ものみたいなのが多かった。

思えば僕が小学生の頃に地元の科学館のプラネタリウムでみたのもなんか宇宙ロケットで星間飛行するやつだったと記憶(なんかブラックホールに吸い込まれそうになる件があって吸い込まれたら無になるみたいな説明がしばしトラウマになった)。

それが、時代が新しくなるにつれそういういかにもな宇宙SFチックなコンテンツは減っていき…直近は科学館のゆるキャラ的なものが前面に押し出されていたり。象徴的なことには30周年記念の最新上映プログラムは伊丹市の名所散策とだいぶスケールが縮小。

まあこれは極端な話だとしても、一人のSF読みとしては、近年の宇宙SFの衰退というか、一昔前の派手なスペース・オペラって流行らないですよね。僕自身も決してそういうのに魅力を感じるわけでもないですが、そういう物理スケール的にも大きな物語を流行らないということをこういうプラネタリウムのプログラムの履歴からも勝手に読み取ってみたり。。

ある意味、この30年で”社会の科学化”が進んだ、すなわち社会の重要な意思決定における科学の役割が増したということであり、その結果として"科学の社会化"も進んだ、すなわち科学の側も社会の要請、ニーズのあるところに重点的に資金や人材を投資していった結果として宇宙とか天文という分野が下火になったということなのだろうかと伊丹市の名所案内を眺めながら思った次第。科学館のありようもこれからどんどん変わっていくことだろう。

 

 

 

 

 

 

ビッグイシューとフードロスと「遊び仕事」

今朝、この記事が目を引いた。

www.tokyo-np.co.jp

 

雑誌販売を通じたホームレスの自立支援に取り組んでいる「ビッグイシュー」が、パン屋さんで売れ残った?パンを安値で仕入れて同じくホームレスの人に販売してもらう、という事業に乗り出すのだという。

いわば、1つの事業で貧困とフードロス削減という2つの社会問題・課題の解決を目指すという一挙両得的な試み。

すばらしい。

こういう社会問題・社会課題を解決するような社会起業家が世間には増えていると言われるけれど、実際に僕がその活動とコンタクトとしたことがあるのはビッグイシューくらい。この「パン屋」も東京だけみたいなので当面僕にできることといえば、地道にビッグイシューを買って応援していくことくらいだろうか。

 

それにしても、この貧困問題とフードロスという、どちらも単一の問題としても難題なのだけれど、それを一度に解決を図るというのはなんとも無謀に思う人もいるかもしれない。

 

しかし、少し待ってほしい。

両方を同時に取り組むからこそうまくいく、ということもあるのではないか。

 

ここで思い出したのが学生時代に受けた環境倫理の鬼頭秀一先生の授業。

里山保全の文脈で「遊び仕事」というものを取り上げていた。これは生計を立てるためのいわば本業的な「生業」とは別に、川釣りやキノコ採りのような、たしかに経済的利得も上がるものではあるけれど、それだけの経済性や生産性ということを考えるとわりにあわないような/しかしながら、それに興じることが多大な楽しみをもたらすような活動を言うものである。つまり純粋な経済活動ではなく、趣味性のある経済活動、あるいは純然たる遊びというわけではなく、一定の経済的利得を得ることも目的とする活動でまあ読んで字の如く遊びと仕事の中間ということになる。論者によってはマイナー・サブシステンスとかいうやつだ。

「遊び仕事」はその人の生への充実感をもたらすだけでなく、自然との関わりを実感させるものであり、その「遊び仕事」を継続するために自ずとそれを継続できる環境を整え、維持しようとする努力が自ずと促されると説く。

つまり生産性や経済性という資本主義的価値観のような単一の評価軸では持続可能ではなく、打ち捨てられるようなものでも、複数の価値基準で支えることで持続可能なものとなる。そして、持続可能となることで、その活動を持続可能とする環境を維持する努力が自ずと生じてくる/促されるということ。

 

フードロスに限らず、リサイクルとかリユースの問題というのは産業界でも叫ばれて久しいがなかなか実現しない。プラスチックの世界では単に回収品のコストと品質がバージン品と比べて割りに合わないということに尽きる。フードロス削減が進まないのも大なり小なりそういうことだろうと理解している。

そこにホームレス支援という社会的意義を与えることで新たにエシカルな価値が加わることで、フードロスを単なる「安かろう悪かろう」的な商品から引き上げることができる…ということになろうか。

こういうビジネススキームを構想、実現する仕事というのは相当な苦労はあるだろうけれど、社会的充実感の高いものであるだろうな、と。

翻って自分の仕事ぶりであったり暮らしぶりを反省する…

 

改めて、「遊び仕事」をもちたいものだな、と。

9月に読んだ本

今月読んだ本を振り返る毎月恒例(?)のシリーズの記念すべき第1回です。

 

漫画含めてとはいえ11冊はわりと読んだ。

後半はウイングスパンのSteam版リリースに伴いだいぶ時間を吸われた感があるのでほんとはもっと読めた?とはいえ、しばらくウイングスパンブームは続きそう。

 

1冊目:

シオドラ・ゴス『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち』

honto.jp

これについてはわざわざ独立した記事を書いているくらい琴線に触れたというか、読んでての溢れ出すワクワク感がハンパない。

スチームパンクな世界観で「怪物の娘」たちが慌ただしくかき回すキャラクター小説。続編が待たれる。

meirin213.hatenablog.com

 

2冊目:

柴田勝家アメリカン・ブッダ

honto.jp

戦国武将の柴田勝家をリスペクトする民俗学系SF作家・柴田勝家による最新短編集。

生まれたときからVRの世界で暮らす雲南省少数民族南方熊楠がロンドン留学中に孫文と「天使」の正体に挑む長編『ヒト夜の永い夢』の前日譚、「物語」を禁じる国の空港の物語検疫官の話、そして何よりも表題作!未曾有の災害により荒廃した現実世界から逃避し、加速する精神世界に移住したアメリカ人にブッダを信奉するアメリ先住民族の末裔との対話。ぶっ飛んでいるけれどしっかり読ませる。ふだんSF読まないヒトにも自信をもって勧められる作家になったなあと。

 

3冊目:

水色残酷事件『機龍警察 絶滅戦線』

月村了衛先生の機龍警察の同人誌。通販で買ってから久しく寝かせていたものを本棚整理していてサルベージ。

特捜部と謎の巨大生物が対峙するというロマンあふれる一品。ユーリとか宮近がネタにされるのも含めてこれぞ同人という感じ。作者の筆力も十分で非常に高クオリティだと思う。

 

4冊目:

三春充希『武器としての世論調査

honto.jp

Twitter世論調査の定点観測や国政選挙の情勢報道まとめで知られるはる氏による新書。普段なんとなくわかった気になっている選挙や世論調査というものを体系だって論じる。これは高校生くらいに一通り読ませたいですね。

 

5冊目:

陸秋槎『元年春之祭』

honto.jp

百合SFアンソロに収録されていた「色のない緑」で一目置いていた作者の長編ミステリ。読んでみたら想定以上になんとも罪深い少女たちの「関係性」の物語で徹底的にやられてしまった。業が深い。陸秋槎の作品を一通り読みたいと思った。

 

6冊目:

月村了衛水戸黄門 天下の副編集長』

honto.jp

月村先生がおふざけで書いたとしか思えない問題作。水戸黄門を史実に基づきつつ茶目っ気たっぷりに書いた作品。水戸黄門一行が編集者として国史の原稿集めに全国行脚して執筆者の抱えるトラブルに巻き込まれつつそれをドラマ版よろしく収めていく…忍者バトルは必要だったのか…

 

7~8冊目:

ピーター・トライアス『サイバー・ショーグン・レボリューション』上・下

honto.jp

honto.jp

歴史改変、人型ロボットとみんなだいすきな設定を詰め込みつつも、冒険小説とかポリティカル・サスペンス的な醍醐味を詰め込んだ一品。USJ三部作のラストに相応しい出来栄え。映像化が待たれる。

 

9冊目:

ミステリマガジン2020年11月号

honto.jp

機龍警察 白骨街道の連載第5回…一難去ってまた一難。ここにきてあの人物が満を持しての登場。。。おお…そうきたか…

 

10~11冊目:

ゆずちり『姫乃ちゃんに恋はまだ早い』1~2

honto.jp

honto.jp

Twitterで流れてきたたいへんよろしかったので書籍を購入。

ジュンク堂梅田店で在庫がなかったので取り寄せした。3巻以降もぼちぼち買っていきたい。