meirin213の日記

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませる熱可塑性会社員。ボードゲームとSFを好みます。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』考

カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞しましたね。初めて自分が読んだことのある作家が受賞したような気がします。

カズオ・イシグロは『わたしを離さないで』くらいしか読んでいないのですが、大学生の頃に書いたレビューというか考察というか文章があったのでこちらにて再掲。

当時のわたしの若さと勢いのある文体とともにお楽しみください。

 


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カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』土屋政雄訳、早川書房、2006年(原題 Never Let Me Go 2005年)

日系英国人文学者カズオ・イシグロによる小説。昨年、イギリスで映画化され、今年の3月に日本でも公開されるそうな。クローン人間による臓器提供が制度化されているというなんとも未来的・SF的設定があるが、著者は冒頭、すなわち主人公キャシーが過去の回想を始める時点での時代設定を1990年代末としていることには留意しておきたい。そして、今さらっと本作における重大な設定を”ネタバレ”したわけだが、これは私が本作はあくまでも「文学」として読まれるべきであって、そこらの隠蔽された”真実”が解き明かされる過程を楽しむミステリー小説の類として読まれるべきではないと考えるからである。カズオ・イシグロもインタビューの中で

  この小説は最初から読者が結末を知っているかどうかは、重要ではないと恩います。(中略)サスペンス性がそれほど大きな間題になることがわかっていたら、もっと最初の方で事実の部分を明かしていたかもしれません。そうすると読者は他の面やテーマにもっと留意することができたかもしれません。
(「カズオ・イシグロ/Kazuo Ishiguro 『わたしを離さないで』 そして村上春樹のこと 」国際フリージャーナリスト大野和基のBehind the Secret Reportsより)

と述べているかことからもそのことは明らかである。ネットのレビューなどを見ていると「キャシーたちの運命を知ることは作品の魅力を減ぜしめる」という認識が支配的であるが、私は彼女たちが臓器提供のために生み出されたクローン人間であることを知った上で読んだ方が遥かに深い読みができ、また、それは著者の本意にも適っているので臆さずに”ネタバレ”をした次第である。

それでは、考察に入りたい。
主人公キャシーらは先述の通り、臓器提供のためだけに生み出されたクローン人間である。彼らは専門の施設で育てられるが、キャシーらが育つヘールシャムもその施設の1つである。ただ、このヘールシャムは他の施設と異なり、創造性を極端に重んじた教育がなされている。また、ここでは、詳細であるが淡々とした性教育がなされるが、彼らクローンは性交渉は可能であるが子供を産むことができないのだという。このことは彼らがクローン人間、すなわち彼らが人工的に、男女の性愛なしに生み出された存在であるということを反映していると思われる。キャシーが自身の性の衝動に悩まされるなど作品を通して性というものがかなりクローズアップされていることも同様であろう。そして、このことは、クローン人間の間で流布しているという噂が「深く愛し合った男女は臓器提供を3年間猶予される」という神話の構造を取ることに集約される。

この神話をめぐっては物語の終盤でキャシーが全編を通じて特別な絆が描かれるトミーとともにヘールシャムゆかりの人間を訪ねている。トミーはヘールシャムでの異様とも言える創作活動の奨励、創造性への称賛はこの男女の愛の深さを証明するためのものであると考えていたが、提供猶予は単なる噂に過ぎず、ヘールシャムの創造性教育も外部に対してクローン人間の待遇改善を主張していた施設関係者がクローン人間にも教育によって創造性という人間性が宿るということを示すための手段であったことが明かされる。
その事実に落胆するトミーに施設関係者は「自分たちがチェスの駒と同じだと思っているだろう、でも…」(p.319)と慰めの言葉をかける。ここで「チェス」という言葉が使われているが、この「チェス」はそれまでに2度出てきている。それは、いずれもキャシーとその親友であり、かつてはトミーの恋人でもあったルースとのやり取りである。
1度目(pp.66-7)は幼少期にルースにキャシーがチェスのルールを教わろうとして、実は知ったかぶっていただけというルースの虚飾を見抜くも、それに付き合おうとするシーンであり、2度目(p.149)はヘールシャムを出た後の共同生活中に、ルースの軽薄な行動を咎めていたキャシーが、迂闊な言葉を吐いたことでルースに反転攻勢に回られる場面で、その心情を「チェスで一手指し、駒から指を離した瞬間に過ちに気づ」いたような感じと表現している。この2場面はともに二人の関係における主導権の賭かかった重大局面で登場するのであり、虚栄心であったり、他者の痛みに配慮する心、人間関係における駆け引きで相手を打倒せんとする欲などよくも悪くも極めて人間的と考えられる心情が発露される。つまり、「チェス」において人間性が表象されていたのであるが、施設関係者が「チェスの駒」と述べ、チェスの打ち手というメタな視点から捉えられることで彼らはそのような感情が欠落し、人間性を有さない単なる有機物、提供可能な臓器を有する資源へと成り下がる。クローン人間たちの”神話”は自分たちが生まれつき疎外されている、正当な生命の起源である男女の性愛を自らの手によって取り返す、確立させることによって、クローン人間たちに用意された臓器提供という宿命、エデンの園を新たなアダムとイブとして離脱し、真に人間となることが予期されているといえよう。とはいえ、キャシーとトミーによる試みは彼らの育ての親から根本否定され、加えて彼らに手を差し伸べていた施設関係者自身も大航海時代の宣教師が”現先住民”が信仰と教育によって”人間”らしくなりうると考えたように彼らを人間とは一線を画す存在として捉えていることが明らかとなる。ここにおいて神話が完全に破壊されることによって、クローン人間自身が帯びていると考えていた人間性というものはルースの虚栄心同様、まったくの虚飾であると判決が下されるのである。

そして、施設関係者が彼女らなりのヒューマニズムに基づきながらも、宣教師よろしく”先住民”を人間とは区別し、一線を超えることができなかったように、クローン人間たちにも臓器提供という宿命に対し、それに猶予を願い出ることはあっても根本的にそこから逃れたり、ましてやその宿命を打倒せんとする気概が全くないのである。そのことは太平洋戦争における特攻隊員と同じで、思想教育や社会情勢の影響としてやむをえないと言ってしまえばそれまでだが、正当な異議申し立ての機会を自ら閉ざしているのである。つまり、感情や言動なりを整えて人間らしく振舞ってみせても、所詮は人間たりえないということであり、人間たりうるには、臓器提供という予め決定された未来に真っ向から立ち向かってみせる姿勢、すなわち、反逆不可能に思われる因果律にも立ち向かってみせることを可能とするような自由意志こそが人間性の根拠だということを示唆しているのではないだろうか。

キャシーらクローン人間は「提供の猶予」という小さな物語に満足し、彼らをその起源から規定・抑圧するような宿命、大きな物語に立ち向かう気概はおろかそのことへの不満・疑念すら抱くことはついぞなかった。だからこそ、生まれた時から死ぬまで人間ではないものとして扱われ、終始人間性から疎外されているのである。

このような状況はクローン人間であるキャシーらの身の上に生じているだけではないだろう。よくある批判ではあるが、心理学主義化された社会においてあらゆる問題を精神や心に還元し、個人に押し込めてしまうことで社会構造、社会全体としての問題が看過され、個人の責任のみが問われてしまっている。少し前に流行り、今では定着した感のある”癒し”ではあるが、与えられるがままのヒーリングアイテムやパワースポットという小さな物語に刹那的に充足させられ(一時的な猶予を与えられ)、日常的には社会や権力に抑圧/搾取され続けるような現代人の在り方と私にはダブって見える。

われわれは今こそ社会に対して、権力に対して正当な異議申し立てを行うべきではないだろうか。
そんなことをこのような”文学”から考えるのはやり過ぎというものだろうか…