急がばしゃがめ

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませては目を回す。人文系だけど高分子材料でご飯食べてます。。SF読んだり、ボードゲームに遊ばれたり。一児の父。

コクリコ坂からを金曜ロードショーでやってみたなので昔のレビューというか考察らしきものを掘り返す

表題まま。

上映当時は2011年だから9年前ですか…

工場実習中に暇過ぎるあまり同期と男2人で観に行って、ふたりともに号泣しながら映画館を後にした思い出。

いま見返すといろいろ粗いですが、まあそれは今も変わんないかあなどと反省しています。。。

以下2011年の過去レビューを転載。

 

スタジオ・ジブリの最新作『コクリコ坂から』を観てきました。
まずは核心に触れない範囲で極めてシンプルに感想めいたものを述べるならば、よい映画だったと言えるでしょう。(この作品はいわゆる”ネタバレ”してから観てもその価値を減じ得ない類の作品かと思うのですが、念のためわけときます)

時代設定は昨今流行の”古き良き日本”の典型となっている高度経済成長の真っ只中、東京オリンピック前夜の1963年。カルティエラタンの住人である文化系の男子学生たちは、現代においてはほぼ完全に滅びたと思われる”学生”らしく、実にインテリ予備軍らしい言動をとるわけです。特に主人公・松崎海が想いを寄せるところの風間俊は週刊カルティエラタン編集部として紙面で取り壊し反対の論を展開している。”思想”があり、それを”実践”する彼の姿には僕なんかは非常に共感を覚えるわけです。
ほかにもいかにも不器用で硬派な哲学研究会の生徒(彼が自分のことを哲学徒ではなく哲学学徒と言っていたのにはひっかかりましたが)もいい感じでした。とにかく僕が強い憧れを抱く知的であろうとする”学生”文化が生きているのがカルティエラタンだったわけです。かつては一部ではあっても高校生ですらもこのように知的であろうとする、インテリぶろうとする風潮があった。こういった現代においてほぼ忘れ去られているものをジブリ作品というマスメディアで描いたことは非常に大きい。『もしドラ』の真似事なぞしている場合ではない。




傍論的な個人的な思い入れはおいておき、本筋について論じましょう。

物語の軸は2つ。
とある横浜の進学校にある”カルティエラタン”という古い文化部棟の取り壊し反対運動とそれを通じて出会った若い男女の出自にかかわる恋愛の行く末。




------以下、ネタバレを含む考察というか評論めいたもの------




最終的にその両方の問題はカルティエラタンは取り壊しが取り消し、出自にまつわる恋愛も結局は、主人公が恋に堕ちる風間君は血のつながった兄ではなかったということになって非常にわかりやすいハッピーエンドとなっており、そのハッピーエンドに向けて事態が全て好転する終盤の流れは観ていてとても気持ちがいいものでした。

だから、私は(実はジブリ作品を劇場で観るのは小学生の時に観たもののけ姫以来だったりするのですが)普通に良作、いい青春映画だったといえると思います。
あのヤマカンこと山本寛氏がこの作品を観て監督引退を撤回したというのも肯けなくもないです。



ただ、問題―というよりも、違和感、物足りなさを覚えた点―がないわけではない。

最大の問題はこのハッピーエンドがすべて”大人”たちから与えられたに過ぎないものだということだ。
カルティエラタン取り壊しについては、学園の理事長である出版社社長(徳丸とかいう名前からしジブリの元締である徳間書店を彷彿させる)によって承認されることではじめて存続を許される。特に顕著なのがその社長がカルティエラタンを査察に来た際に生徒たち(あえて学生とは言わない)に彼らの研究について尋ねるわけです。僕が見所があると感じていた哲学徒も社長の「こんな狭い部屋で窮屈ではないか」という趣旨の問いに対して「閣下は樽に住んだ哲人をご存知でありますか?」と返したことで社長から褒められると涙を流して喜ぶわけです。真の哲学徒、ましてやディオゲネスを信奉するならばそのような権威にこそ逆らってみせなければならないわけです。
ここに、この時代のインテリ予備軍の限界が顕になるわけですが、誰もそこに気づいていない。指摘しない。つまり、表面的な理解しかできていない、自分の”思想”として取り込めていない。これこそがファッションとしての思想と批判されるべきものであり、そこにとどまってしまったことが彼らの限界だったわけです。
加えて、このカルティエラタン取り壊し反対運動というのは当初は全校生徒の8割(7割だったかも不確実)が取り壊し劣勢という状況にあったのが、主人公・海の提案で大掃除をし、その協力者として主に女子生徒を巻き込みつつ、運動を大きなものにしていき、賛成派を逆転するという極めて政治的な手法を取ります。これは確かにやり方としては”うまい”のですが、当初はもっぱら言論によって取り壊しの悪を主張していた彼らの主張・思想の敗北を意味しています。”思想”では為すことのできなかったことが、カルティエラタンの清掃という具体的行為の結果によって為された、それも上から恩恵的に与えられということが”思想”側からすれば絶望的な敗北を付きつけられている。折しももっぱら物質的豊かさが追求され、”豊かさ”が貧しくなった、あらゆる価値がカネに置き換えられてしまう方向へと日本が向かっていった高度経済成長期の時代性をよく表現しているといえば表現しているわけだが…

そこに気づかず無邪気に喜ぶ彼ら。こんなにも観ていて哀れなもの、苦しいものはあるか、と。



血縁の問題も然り。
風間俊と松崎海が血のつながったきょうだいだという”事実”は否定されることになるわけだが、それも彼らの親たち、大人の取り計らいによって明らかになるわけである。個人的にはふたりの父親たちの親友との邂逅シーンはグッとくるものがあり、映像表現としては好きなのですが、描かれている内容としては肯けない。


結論。
彼ら少年たちは闘っているけれど何も勝ちることができない。
それは単に彼らが大人によって庇護されるべき子供であるからであり、大人が支配する世界からは決して逸脱することはできない。”思想”というものを表面的にしか理解することができない、自分の立脚しているものに深い眼差しを向けることできていなかったことが大人たちが定めた枠組みで大人たちの裁量の範囲でしか生きられない、彼らの未熟さ、不完全性、儚さというものを表している。そういう意味でも『コクリコ坂から』は徹底した”精神映画”だと言えるだろう。



以下箇条書き。

・血縁
今回、非常に重大な問題となっているのが血縁の問題である。風間俊も松崎海もふたりがきょうだいならば決して結ばれることはできないと思考停止している。それは当時の保守的な価値観を反映しているともいえるが、きょうだいでもなお愛しあうというインモラルな選択肢が一切出てこないというのには違和感を覚えずにはいられなかった。ここまで血縁というものに囚われる少年少女というのが完全に浮いてしまっている。その重大性、切迫感を共有できない。しっくりこないのである。
この血縁への固執っぷりが宮崎吾朗監督の父であり偉大な監督である宮崎駿氏への固執とそのままパラレルに思えてならない。彼の私的で濃厚な感情が異様に盛り込まれているからこそ、観るものに軽い拒絶感すら覚えさせるのではないだろうか。
そして、今回は実はきょうだいではなかったというオチになっている以上、吾朗氏は駿氏に対するエディプスコンプレックスを未だに乗り越えることができていない。彼は今後も血縁が濃厚に絡んでくる作品をつくることになるのではないだろうか。


・消えた弟
冒頭で存在感を放っていた弟はそれ以降ほとんど存在感を消す。一応北斗さんお別れ会や母親の帰国シーンで貪っている描写があったように思うがストーリー上、重要な役割を果たす妹に対してその扱いは極めて軽い。
なにか意味があるのかと考えてみたがぱっと思いつかなかった。