急がばしゃがめ

コンクリートジャングルで合成樹脂のささやきに耳を澄ませては目を回す。人文系だけど高分子材料でご飯食べてます。。SF読んだり、ボードゲームに遊ばれたり。一児の父。

國分功一郎『来るべき民主主義』

 7日間ブックカバーチャレンジで國分功一郎の『来るべき民主主義』を取り上げたら

思いがけずわりと反応があったので、昔書いたレビューを再掲してみます。

2013年なので6年以上前ですね。。。

いろいろ若い。

当時は民主主義に絶望しかけていたのをこの本との出会いで大いに励まされた次第。その時の見立てとは異なってはいますが、(深い深い絶望の時期を経ながらも)直近のTwitterでの抗議活動が一定の成果をようやく上げることができたことに改めて希望をいだきつつ、はてさて今の自分に何ができるだろうか、とまた考える次第。

 

 

 

ーーーーーーーーーー(ここから再掲)ーーーーーーーーーーー 

 

國分功一郎『来るべき民主主義』を読んだ。

まがいなりにも本を読んでいると、人生において、ほかでもなくまさにその場面において、ほかでもなく必要としている、欲していた然るべき内容のそれに出会うことがある。そういう運命的とでもいうべき、否、宿命的としか言いようのない読書体験というのは確かに存在するのである。
僕の場合は、これまでに数回ないしは数冊のそういう出会いがあったのだけれど、そのことはまた別な機会に語るとして、ほかでもない、25歳の秋に、ほかでもない、この『来るべき民主主義』との出会いがまさにその宿命的読書であった。

國分はデリダドゥルーズらのフランス現代思想の研究者であるが、この読書を特別なものとしたのは、この本が彼自身が小平市都道建設見直し運動にコミットしたという実践・経験に根差して書かれているということ。

本書の中で國分が最初に提示するのは、近代以降の社会の伝統である「議会制民主主義」の欠陥、近代政治理論における、ひいてはわれわれの一般認識における「民主主義」への疑義である。

この「民主主義」においては、ひとびとは立法権を司る議会の構成員であるところの議員を選ぶ選挙権を有していることで、主権を有しているとされる。しかし、果たして立法権にコミットできるのみで主権がひとびとにあるといえるのか、というのが國分の単純にして明快な疑義であり、その根拠となるのは、小平市における都道建設問題に端的にあらわれるような、住民の意志が反映される余地がまったくないままに行政権が実行されているという事態である。

理論的には、住民の意志というのは、行政権が従属しているところの、すなわちより上位に位置付けられる立法権に議員選挙という形で既に反映されていると考えられるのだが、実態としてはまったくそうなっていない。そのことは誰しもが大なり小なりの行政が決定し、推し進めてきたこと/廃止したことにまつわる苦い記憶によって実感するところであろう。

つまり、ここに國分は、これまでそう信じられてきた「民主主義」というものが実はまったく「民主的」ではなかったという指摘されてしまえばコロンブスの卵的に納得せざるをえない事実を指摘する。

その指摘だけでも僕には十分に貴重な読書体験であったけれど、國分はそこからさらに「では、どのようにして『民主主義』を「民主的」
なものとして再構築するのか」という問いに明快な1つの方向性を与えているところにこの体験の価値を飛躍的に高めている。

これまでに「民主主義」の欠陥を指摘し、議会制民主主義および選挙制度を修正しようとする議論、試みは少なくなかった。しかし、國分の示す方向性がそれらと決定的に違うのは、彼は議会制民主主義という制度を絶対視しない点である。議会制民主主義の欠陥を同じ1つの
制度の中で解決を図るのではなく、議会制民主主義は議会制民主主義という制度としてそのまま(もちろん、より民意を反映させることのできる制度がとりあえずは望ましいにしても)維持しながらも、それとは異なるまた別の民主的な制度を立ち上げるあるいは、強化することで「民主主義」に「民主性」を回復させようというのである。
これは、いつのまにか民主主義の実現のあり方を議会制民主主義という制度に一元化されてしまっていたわれわれの思考を、社会を解き放つコペルニクス的展開ともいえる快挙ではなかろうか。
この件を読んだときに、僕の中で、先般の参院選前に知人と議論を交わして以来、もやもやしていた政治参加・選挙についての考えに道が開けたような感覚を覚えた。
その議論というのは、昨今の若者の投票率の低迷を受け、(僕が短い人生の中でこれまでに何度となく聞いてきたような)若者が投票することの意義・メリットを示して「選挙にいこう」と呼びかける知人(司法修習生)に対し、僕が若者の投票率が低い原因を「①そのようなメッセージがまだ当の若者のもとまで届いていないからなのか ②そのようなメッセージが届いてはいるが、その内容を理解できないからなのか ③メッセージは届いており、内容も理解できているが、それに価値を見出さないからなのか、すなわちそのような政治的方法による解決に期待を抱いていない/抱けないのか」そのいずれのパターンだと考えているのか という趣旨の問いを投じたことにはじまる。もちろん、そのような呼びかけをしている当人であれば当然①、ないしは②であると考えている(あるいは、おめでたくもメッセージの受け手のことは考えていない)のだろうけれど(そして、当然僕は僕自身がそうであるように程度の差こそあれ概ね③と考えている)、その知人からの返答は「現状の認識が異なるようですね」という何を今更感あふれる”常識的”な発言にとどまり、ひどく肩すかしをくらった感があった

とはいえ、そこで僕自身が③でありながらも、いまいち煮え切らないのは、投票行動、ひいては議会制民主主義にはもはや積極的価値を見出せない人間は、ではどのようにして政治参加することができるのだろうか、ということである。
その僕のもやもやした思いに道を示してくれたのが本書であり、具体的な方策というのは、住民投票であり、ワークショップであり、パブリック・コメントといったすでにあるが有効に活用できていない制度たちである。それらを有効活用するための具体的な提案や住民参加を進める上での実体験に裏打ちさけれた要点・注意点についてはそれぞれに一読の価値があるので、多くの人にぜひとも読んでもらいたいところだ。
ただ、僕がそう思ったように、当然のように國分も認識しているだろうが、それらの制度を活用する主体が問題となってくる。
それは、すなわち、住民個人というよりは住民グループというのが現実的だろう。

小平の都道問題については、建設予定地に住んでいる直接の住民がというよりは同じ予定地である豊かな雑木林に価値を見出すひとびとの集まりが主体となっている。國分もそのひとりであり、また運動が広がりをもつことができたのも、雑木林を舞台に老若男女を巻き込んでさまざまな催しを通じ、ひとびとにその雑木林の魅力を実感してもらうことができたからだろう。この実感、共感を起点とした連携、連帯というのは非常に好感がもてるのだが、そういったものがないようなところではどうするのか、あるいは、小平における雑木林が危機に陥ることなしに連帯することは可能であったか、というところに不安を感じなくもない。

実際に都道建設に対する見直しを求める運号が現時点では具体的に行政の決定に民意を反映させるという具体的成果を未だに挙げていないということが端的に示すように、なにかが起きてから慌ただしく組織しているようでは遅いのである。平時(という表現が適切かどうかはさておき)から緊急事態に備えて、ということではないが、政治活動の起点となりうる状態、本書中では湯浅誠の言葉として紹介されている「溜め」、社会関係資本的なもの、政治的活動の起点となりうるもの、そういったものをこの現代社会、地域社会においてどのように構築するか、そのことをこれから考えていきたいし、遠くない将来に実践にうつしたい。